48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

読書会〜「読書について」

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2019年最初の読書会の課題図書はショーペンハウアー著作の「読書について」でした。

 

ショーペンハウアーは1788年に北ドイツにあったハンザ同盟の自由としダンツィヒ(現在はポーランドグダニスク)に生まれ後に、ドイツで活躍した哲学者です。

 

ショーペンハウアーの紹介はWikipediaに任せましょう(^^)

アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia

 

この本は3つの話

  • 自分の頭で考える
  • 著述と文体について
  • 読書について

で構成されています。

 

「本を読むということは人の考えにのっかっているだけで自分で考えることを棚上げしている」

 

「言葉の乱れは目を覆いたくなる」

 

なかなか気難しいおじさんにお説教されているような気分にならないでもないが(笑)実は現代にも通じる考え方でもあります。

 

 

 

自分の頭で考える

これってネット社会の今だからこそ実は最も問われることではないでしょうか。

 

フェイクニュース偏向報道など事実とはいいがたい「情報」が飛び交うことで、現実から乖離しかねない環境に我々は置かれています。

 

人は集まると個人ではありえない行動を取ることがあります。

 

いわゆる「大衆」としての動きで、そのもっとも最たるものが革命だったり、暴動だったり、集団リンチなどもそのたぐいの一つです。

 

すなわち突然暴力的になって破壊活動に変貌する怖さがあります。

 

人が行っていることを無条件で受け入れることの怖さと罪。

 

遅まきながら私も新聞やテレビ、ネットなどで報道されている内容はそのまま受け取らない習慣がついてきました。

 

「そんなことが有りうるんだろうか」とまずは考えるようにしています。

 

そして都合よく聞こえることはだいたい何かおかしいことが多い。

 

美味しいと感じる話はだいたい裏があって毒を含んでいると思ったほうがいい。

 

でも杓子定規にすぐに評価することはしません。

 

まずは一旦受け止めて考える。

 

直感も大切なのですが、直感は「考える」という行動の積み重ねがあっての能力だと思っていますので、「考える」こと抜きには語れません。

 

Don't think, but feel!

 

ということを耳にしますが、これも同様です。

 

文明のおかげで人はfeelする力をどんどん失ってきています。

 

feelするために普段からthinkすることでアンテナを作り、feelするきっかけを増やしていくことが不可欠だと思います。

 

著述と文体について

ショーペンハウアーは本著でドイツ語の乱れを嘆いています。

 

日本語に対しても同様な嘆きは少なくないでしょう。

 

ただ言葉というのは時代とともに変化していくものではないかと私は思うので、「乱れ」と断罪していいものか、私にはまだ納得感はありませんでした(^^)

 

ショーペンハウアーほどの人が考え抜いてこのように言語化しているのですから、凡人でそんなに深く考えてもいない私なんぞが反論なんておこがましいも甚だしいところですが、日本語であれば「今平安時代の言葉遣いされてもなぁ」と思うわけです(^^)

 

 

法律用語しかりですね。

 

きっと明治時代だったら法律用語で使われている表現って当時はもう少しわかることができただろうに、今はからっきし、と思います。

 

文豪といわれている夏目漱石はオリジナルの言葉をたくさん作ったことでも有名です。

 

今で言えば女子学生が作り出す言葉の数々は今や「文化」と評価する人もいるくらいです。

 

確かに「ちょっとな〜」と思う言葉の使い方に接することもあります。

 

自分もそう思われることがあるんではないかと不安にもなります。

 

「乱れ」と「変化」って評価難しいですね。

 

読書について

これは結局は冒頭の「自分の頭で考える」につながる話のような気がします。

 

人の意見や視点を受け入れること自体はプラスであるが、「鵜呑み」ではなく自分で考え咀嚼してから取捨を判断することで読書が価値あるものになる、そんな解釈をしました。

 

 

ショーペンハウアーは本書でもWikipediaでも紹介されていますが、多くの哲学者、学者に影響を与えた人物のようです。

 

深い洞察力とするどい視点を持つそれらの人々が影響をうけるのだから、もっともっと読み込むことでショーペンハウアーの魅力が理解できるのかもしれません。

 

読書会にて

読書会でこの本について仲間たちと意見交換をしました。

 

1日1冊のペースで読書している仲間の1人は

 

「自分は基本この本で書かれているように、『良書』ばかりを読みたいと思っている。

 

だけど世の中には1年で本を1冊も読まないかもという人が少なくない。

 

そういう人がたまたま手にとった本が『あ〜つまらなかった』といって読書から離れてしまうのはもったいないと思う。

 

だから自分が選書をすることでそういう人たちの役に立てたらと思って、多くの本を手にしてその評価を投稿している」

 

と言っていました。

 

この仲間はいつも読了後に自分の評価も含めて感想をSNSに投稿していて、私もよく参考にさせてもらっています。

 

ある仲間はこんなことを言っていました。

 

「確かに若かった時に流行った作家の本って読んでいて楽しかったんだけど、ある程度読むと『もういいや』と食傷気味になるんだよね。

 

例えてゆうなら『駄菓子』みたいな。

 

食べている時は美味しいと思うんだけど後味が残って」

 

面白いたとえですね。

 

『なんのための読書か?』という問いかけに対し、「何かを学ぶため」という声と「単なるエンターテイメントとして」という声がありました。

 

本には両方の要素がありますね。

 

私も映画を観るように小説に没頭するときもあります。

 

学ぶというより明らかにそのストーリーを楽しむために読んでいます。

 

日本の文豪と言われた人たちには多くの小説家も含まれています。

 

もちろんそこから学ぶこともあるとは思いますが、元はといえばエンターテイメント。

 

良書、悪書にしても「誰にとって」という定義の仕方でその内容は変わってくるはず。

 

また悪書と思われる書物があるから良書が存在する、という見方もあります。

 

悪書も良書も「比較級」による表現であって、「〜よりも」というものが前に存在します。

 

例えば今悪書と呼ばれる本をすべて葬りされたとしましょう。

 

残った本はすべて良書のはずです。

 

でもその良書の中からまた悪書と良書が出てくるんです。

 

それは良書と呼ばれていた本同士で比較がされて優劣の序列をつけられ、この本はあの本に比べてよくないね、みたいなことになります。

 

良いものを求めるという欲求は果てしないのです(^^)

 

著者も言っていますが大切なのは「自分で考える」ということであって、「自分にとって」良書なのか悪書なのかを自分で判断する力を磨いていくということが、人生の構成要素の1つなのかな。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)