今回の課題図書は半藤一利氏著作の昭和史1925-1945でした。
そう、元号の昭和が始まってから終戦までの歴史を著者の調査・視点に基づいて紹介してくれています。
ただ参照文献の記載が少ないため、本著で記載されていることが事実であるかどうか、あるいは現時点で事実と思われていることかどうかはわかりません。
この時代の当事者である近衛文麿や岡田啓介などの著書を参考文献としておりますが、本人がどれほど真実を語って真実を秘匿しているかは本人のみぞ知るところです。
また著者の見解も随所に織り交ぜられています。
なので戦前から生きていた著者による回顧録として読むのが良いかなと思います。
昭和は張作霖爆殺事件に始まり、
とまさに内外で戦いに明け暮れ、終戦を迎えました。
今だから戦争に負けたという結果を知っているだけに、当時の陸軍を中心とした軍部の動きを「暴走」と表現することはできるのですが、当時そのような感覚を持つことはできたのでしょうか。
国家総動員法が施行され、報道関係は一斉に軍を支持します。
今のようにインターネットがあるわけではないので国民が情報を知る手段は、報道しかなく、新聞やラジオからの情報を信じるしかなかったとき、国の動きに批判的(クリティカル)な視点を持つことは、かなり困難ではなかったかと想像します。
悪名高きヒトラーは、第一次世界大戦で多額の賠償金の債務を負った瀕死状態のドイツ経済を見事に立て直したという大きな実績がドイツ国民の支持を受けた、と聞きます。
しかも当初は連戦連勝で、連合国のイギリスでさえも降伏論と抗戦論が拮抗するくらい驚異的な勢いがあったのです。
そのドイツと手を組むという方針を当時「間違っている」と判断するための材料を探すのは、当時の情報インフラから鑑みて極めて困難ではなかったかと想像します。
現代では「フェイクニュース」が問題視されていますが、同じようなことは当時もその昔もあったのだと思います。
情報を発信する力は権力を持った人であったり、社会的に大きな組織(報道機関)だったりしたのが、現代は個人からもできるようになったにすぎないです。
いつの時代でも「それ本当かな」というクリティカルな視点で情報と対峙する姿勢は大切ですね。
読書会で「人の欲望による暴走を防ぐにはどうしたらいいのだろう」ということが議論されました。
人は宗教や哲学、法律や社会規律といったことで自制を図ったり、歯止めをかけてきたのかもしれません。
私が通っていたビジネススクールのとある講師が「成長と発展の原動力となるのは”欲”だ」とおっしゃっていました。
確かに「〜したい」という欲求をかなえるために創意工夫をして新しいものを生んできて、このままいけば人口は100億人に到達すると言われるくらいの大発展をホモ・サピエンスはしてきました。
その一方でたくさんの犠牲を伴うことも少なくありません。
ここは考え方が分かれるところで、「種の発展・存続」という観点でいくと、多少の犠牲を払ってでも「発展・存続」を優先させるという「生き残り優先」というスタンスと、「発展のために作った虚構の世界で定義された人格や生きる権利を優先」というスタンス。
自然界の動植物は、産んだ卵や子供、種子がある程度犠牲になることが当たり前の世界だったりします。
生き残る力があるものが生き残り、力のないものは犠牲となっていく世界です。
戦争はその行動の一つといえましょう。
でも犠牲を伴わなくても生き残っていける方法はあるんじゃないか、そんな期待感を諦めるにはまだ抵抗感を持っているのが正直なところです。
もう少し欲求を抑えられたら犠牲は少なくなるのではないか、と感じたりもします。
「足ることを知る」という世界。
誰かの欲望を満たすために家族や仲間が犠牲になったり、引き裂かれるようなことがないような世の中であってほしい、ただそれだけなんですけどね。。。
昭和最初の20年はすごく恐ろしい時代だったですね。