1週間あとになりましたが、先週の読書会の課題図書はこちら「だれのための仕事」でした。
だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)
文庫本で190ページ足らずと薄い本にもかかわらず、なかなか読むスピードがあがらず、ちょっと時間かかりました(^^)
著者の鷲田氏は専攻が哲学で、本著の文章も哲学的な表現が多いのがその理由の一つかもしれません。
本著は1996年に一度出版され、その後2011年に文庫本で再販されています。
文庫本になったときに160ページ余の本文に、30ページくらいの補章が加えられています。
さすがに1996年と2011年では「働く」という概念が大きく変化しているので、補章は本文とのつながりがちょっと薄い印象です。
1996年といえば私は新しい部署に移動してしゃにむに働いていた頃でした。
新製品を世の中にだすべく、平日は朝から夜遅くまで仕事し、その後は飲みに行き夜中午前様に帰宅する毎日。
休日は休日出勤もあれば、たまの休みは当時一緒にすんでいた子供と時間を過ごしたり、嫁の実家にいったりというパターンで、全体的には仕事中毒的な生活を送っていました。
世間的にはバブルが弾けて、100円を切るくらいまでの円高を経験した後に再び円安になり、不良債権処理が思うようにすすまないことから経済が今ひとつの時代だった記憶があります。
この2年後には多くの金融機関が破綻し、「いい学校を出て大企業に就職し定年まで働き定年してから年金で悠々自適」という一つの方程式が音をたてて崩れていった時代でもあります。
新卒の就職は厳しくなり、派遣社員の比率が高くなり始めたころでもあります。
本著では「労働vs余暇」という対比から始まり、仕事と遊び、それぞれどういうところで満足度を得てきたのかという分析をしています。
そして「深い遊び」という表現を使って、遊びそのものの捉え方を提起し、あらためて「労働vs余暇」の視点に戻ってきます。
読書会でも指摘されていましたが、「労働と余暇」という2軸で捉えているところに、今の感覚からちょっと隔世の感じを持つことは避けられない印象です。
今は1996年に比べて、転職など労働市場の流動化はかなり進んできており、NPO活動やボランティア活動、社会活動や家庭への関わり方など、時間の過ごし方としては多くの選択肢があり、単純な2軸の世界ではなくなってきています。
それもあって、補章が追加されたようですね。
この補章で「働くことの意味」について触れられています。
この本としてはこの補章の内容のほうが読んでていろいろ考えさせられる気がしますね。
私は「働くことの意味」は「社会とかかわっていくこと」ではないかと思っています。
「個」ではなく「社会」という「妄想の世界」を作り出すことによって人類は世界の生き物の生態系のトップに立っているというのはサピエンス全史で語られています。
「社会」という妄想の世界は我々にとって大切な武器なんですね。
だからその社会と関わるということが自分の命を守ることであり、また人類という種を守ることでもあるんじゃないか、と思うのです。
私の場合、お金を稼ぐための手段でもありますが、それだけだったら会社を辞めないほうがよかったですね。
単純に言えば「なにか役に立てることをしたい」という気持ちを満たしたかったので、自分が役に立てているという実感を求めていました。
この「役に立ててる」って相手に認めてもらえればそれはそれで嬉しいのですが、内容によってはその時には気づかない、理解できないこともあります。
でもそれはそれでいいかな、という気持ちになっています。
本著でもふれていますが「承認欲求」とはちょっと違う感覚かな。。。
つきつめると結局「社会とかかわっていく」ことになるんですね。
世界を救うぞ!とか、世の中明るくするぞ!とか、そんな大きなことは決して言えないんですが、社会とかかわるということそれ自体を自分の使命の一つと思うこともあり、と思います(^^)
とはいえ、この本、なかなか読むのが大変だった(^^)