三大宗教の入門書の読書シリーズ第三弾で今回はキリスト教。
キリスト教といってもこれまた宗派があるので、基となっている「聖書」の入門書を読んでみました。
どれくらい入門だったのか・・・
何も知らない私にはちょうどいい入門書でした。
この本の著者は上馬キリスト教会の信徒の方が書かれたもので、タイトル通り「堅苦しいことは抜きにしてゆる〜く触れてみて」という趣旨のようです。
なので、この本の「はじめに」にも書いてあるのですが、「この本を読んでキリスト教を知った気にならないでください」と(^^)
私にはありがたいスタンス。
まずそもそも聖書って何か?
「神様と人間との契約の書」・・・
歴史物語や詩などを通じて契約の内容がかかれてあるそうな。
そして聖書の中で大切なところは「復活」、すなわちキリスト復活のところなんだそうです。
先月「復活祭」すなわちイースターがありましたね。
キリスト教信者でない私からするとイースターの大切さはまったくピンときていなかったのですが、キリスト教信徒にとってはと〜っても大切なものらしいのです。
うん、それがわかっただけでも読んでよかった(^^)
本書の構成はこんな感じ
このざっくり感は、キリスト教に対する知識がないものにとってはとても嬉しいゆるさです。
聖書をまともに読もうとしたら小型版でも2,000ページにも及ぶ本です。。。
いや〜読めません。。。
しかもこの本によると途中で「退屈なので飛ばしていい」とか「恐ろしく退屈な系図」などがあるらしいので、ますます読みたくなくなる(笑)
この本を読んで、宗教というのは人が生きていく上でとても大切な要素なんだとちょっと思えるようになってきました。
モーセが海を真っ二つに割っちゃったり、ノアが方舟で生きるべき動物を救ったりとか、信じていない人からみたらちゃんちゃらおかしい話なんですが、実は普段我々が信じていることもそんなことはたくさんあるんですよね。
神社で賽銭投げて「神様お願い!」といっているのだって、「南無阿弥陀仏」とお経をとなえて死んだおじいちゃんやおばあちゃんが喜んでいる、と思うのだって、心霊写真できゃ〜きゃ〜言っているのだって・・・
昔超常現象は絶対に信用しない、といっていた某大学の物理学教授がいました。
(私の卒論発表で寝ていた教授です・・・)
「証明されていないものを信用することなんかできない」ってね。
こういう人はソクラテスの時代でもガリレオの時代でもニュートンの時代でも、アインシュタインの時代でも未知の世界を受け入れられない人なんでしょうね。
だって今はまだまだわからないことがたくさんあるのに、その可能性を「根拠なく」否定するなんざ・・・
「そうかもしれないじゃん!」って思うことで可能性を肯定できるのだし、新しい世界を受け入れることができるんじゃないか、と。
おっと・・・この考え方って宗教を信じることと似ていない?
まずは「信じてみよう」そこから始まるような気がしました。
私自身「今起きていることは偶然でなく、縁があっての必然的なもの」とか、「縁がなければ周りから消えるし、縁があれば近づく」とか、「気持ちを込めると通じることがある」とか・・・
ある人が聞いたら「幸せな性格しているね〜」なんて言われるかもしれませんね(^^)
でもね、そう思うこと、信じることで自分が直面しているであろう事実にちゃんと向き合える気がするんですよね。
例えば先程出た「縁」という概念は、「人や物に対する執着心」を持たなく済むという大きな効能があります。
欲しいと思ったって縁がなければ離れていく、そうやって「縁」のせい(笑)にすることで余計な感情の揺れがおきなくなったんです。
本書でいうところの「サタンが悪いんだ!」と一緒です。(^^)
聖書では悪いことはすべて「サタン」のせいにするそうです。
そういえば昔スキーのコマーシャルで「ぜんぶ雪のせいだ」っていうのがありましたね。。。
自分の心のありかたを支えてくれるのが宗教なのかな、と。
私は無宗教といいながらも、なにかしらいろいろな宗教や思想や考え方の影響をうえて、なにかしら支えとなるような考え方も持つようになってきたのかもしれません。
過去に読んだ三大宗教の入門書は以下です。
こちらはイスラム教。
こちらは大乗仏教。
宗教は心に訴えるものだから、本来政治的、社会管理に利用されるのは個人的に好きになれない気持ちはまだ残っています。
宗教上の理由で多くの人達が血を流し、悲惨な事件をおこしてきた歴史は短くありません。
うまく尊重しあえるといいんですけどね。。。