先日こちらでも投稿した「2人のローマ教皇」で述べたところの最後の方で「赦す」力について言及しました。
ベネディクト16世、フランシスコ両教皇が罪だと自分で思っていた過去のできごとを、それぞれの相手に告白します。
そして言われた方は「それを赦す」と伝えるわけです。
罪を告白した本人はとても気持ちが落ち着きます。
確かにキリスト教では「懺悔」があり、誰にも言えない過去のできごとを告白し、「赦し」を得ることによって、心のデトックスをしているようです。
この「赦す」という行為なのですが、私が観ていたコメディドラマ「ブルックリン ナインナイン」では、よ〜く「謝る」シーンがあるのです。
当事者同士がものすごい喧嘩をしますが、しばらくしてどちらかが「自分に非がある」ことに気づき、もう一方の当事者に謝罪にいくのです。
I'm so sorry ~
というくだりで謝罪が始まるのですが、びっくりするくらい相手はこの謝罪を受け入れて、笑顔で関係が戻るのです。
まぁ、ドラマだからというのもあるのですが、他の映画でもそういうシーンはよく観ます。
キリスト教でいう「赦し」とこの「謝罪」とは違う性質のものかもしれません。
私はキリスト教を信仰しておらず、勉強不足もあり「赦し」ということに対する理解は不十分です。
なのでここでは「謝罪」にフォーカスしたいと思います。
謝る側も謝られる側も、かなりエネルギーを使う行為がこの謝罪なのでは、と最近特に思うようになりました。
謝る側は、「自分の非を認める」こと、喧嘩した相手に「自分から話しかける」こと、そして「相手にどのような罵倒でも浴びてもそれは仕方がない、という覚悟をもつ」ことをしなくてはなりません。
どれもとっても、勇気と覚悟のいる決断だと思います。
対する謝られる側ですが、どんなに気分が悪かろうが「その悪い気分をシャットアウトして相手の謝罪を受け入れる」ことが必要です。
揚げた拳を下げることは、プライド、見栄、自尊心などの観点から簡単なことではないことを、多くの人は経験を通じて理解してもらえるかと思います。
すなわち、双方がその時の自分の気持ちをリセットして、大きく前進をするという行為があってこそ成立する儀式が「謝罪」なのではないか、と。
せっかく相手が謝っているのに、なんかバツが悪くて素直に「わかった」と言えずぐずぐずして、「なんだよ、謝ってんのに、なんだよその態度!」とか言われて返って関係をこじらせた苦い経験もあるのではないでしょうか。
そんなことを考えていたら、自分はこれまで「謝る」ことも「謝られる」こともできていなかった、と苦い思いを感じました。
先日ドミトリーのシェアハウスのルームメイト同士が喧嘩をしてしまって、口も聞かない状態が続いてしまったことがありました。
口を聞きたくない、と怒っていた方から「もういやだ」と相談をうけたことをきっかけに、双方から個別に話をきかせてもらいました。
怒っている方は、その怒りの理由を私に訴えました。
怒られている方は、相手が怒っている状況、その理由、そしてどうしてそれが起きてしまったかと冷静に把握していました。
なので、「自分としては避けられなかった面があるのだが、相手に不快な思いをさせてしまったことは事実なのでちゃんと謝罪をして仲直りをしたい。でも相手が今は口を聞いてくれない」と私に説明をしてくれました。
もう一度怒っている方に時間をとってもらい、相手方がどういう気持ちでいたのか、そして今はどうなのかを、伝わってくれることを期待してお話しました。
そして、「相手が非を認めて謝罪をしてきたら、できる範囲で受け止めてあげてほしい」こともお願いしました。
怒りが収まらなければそれは仕方がない。
でも相手の姿勢をみて怒りの感情が収まっていれば、ぜひ受け入れることを試みてほしい。
相手も自分もパーフェクトではないから、過ちは犯してしまうもの。
自分が過ちを犯した時に相手が謝罪を受け入れてくれなければ、解決手段を失ってしまう。
自分は一生罪の意識を持ち続けることになる。
そんな思いを相手にさせてしまうことは、とても残念。
だから受け入れられる余地があればぜひそうしてほしい。
そんな話をしました。
翌日、怒られた方から「仲直りできました、ありがとうございました」と連絡がありました。
お互いよく頑張ったと思います。
ラ・ミゼラブルで主人公ジャンバルジャンが教会から食器を盗んで逃げてしまいましたが、司教が「よいではないか」と赦すシーンがありました。
「赦す」って大変なこと。。。
ドラマ、映画、実際の状況などが同じタイミングで重なったので、ちょっとつぶやいてみました。。。