48歳からの挑戦

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読書会〜「身銭を切れ Skin in the game」

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身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質

 

今回の読書会の課題図書は「ブラック・スワン」で有名なナシーム・ニコラス・タレブ著の 「身銭を切れ」でした。

 

いや〜、なかなか手厳しい本でした(^^)

 

一方で「自分はそうありたい」と思う生き方を示してくれている本でもあります。

 

まずこの著者ナシーム・ニコラス・タレブとはどんな人か。

 

著者紹介から抜粋する。

 

文筆家、トレーダー、大学教授および研究者という三つの顔を持つ、現代の急進的な哲学者。障害を通じて、運、不確実性、確立、知識の問題に身を捧げており、主な研究テーマは「不透明性のもとでの意思決定」、つまり人間にとって理解不能な世界で生きていくための地図やルールについて考えること。レバノンギリシャ正教の一家に生まれ、ウォートン・スクールでMBAを、パリ大学で博士号を取得。

 

そう、たしかに攻撃的な文章は”急進的”という表現がぴったりかもしれない。

 

元々人を攻撃することは好きではないのですが、タレブ氏がこの本で述べているのは攻撃ではなく、”批判”に相当するものと解釈していますが、まあその”批判”っぷりが半端ない(^^)

 

著者は反対の意思を示すだけでなく、その理由と自分の対案を持った上での意思表明なので私は”批判”ととらえています。

 

 

 

統計学、確率論に精通し、科学を理解し、かつ古代文字を読めるほどの語学能力と文筆家としての文章能力、それにトレーダーとしての経済感覚など、この著者にはあらゆる方面の高い能力を有していることを想定させられます。

 

それに古典から哲学、思想、宗教に至るまで一次情報としての膨大な記録や文献から得られた知見をも併せ持っていて、この1冊の本の裏側にはどれほどの膨大な情報量が支えとなっているんだろうと、思わされます。

 

 

 

この本を要約するのは容易ではありませんが、私自身が感じたキーワードは

  • リスクテイク
  • 不寛容

 

でしょうか。

 

リスクテイク

 

リスクテイクは文字通り「自分でリスクを負う」ということ、すなわちこの本の邦題でもある「身銭を切る」ということと直接的につながる言葉です。

 

自分の言動がもたらす結果に対して自分が功罪を受け入れる覚悟をもっているか、ということと解釈しています。

 

つまり、「自分はこうしたほうがいい」とある人にアドバイスを送った場合を想定します。

 

その結果その人にいい結果になれば、なにもいうことはありません。

 

「あのアドバイスがよかった」という称賛を受けたり、礼をうけたり、報酬をもらったりすることでその結果が現れることでしょう。

 

一方その人にとって災いとなった場合、どういう行動に出るでしょう

  1. ”すまない”とその人からの責を甘受する
  2. ”選択するのはあなたの責任だから私には一切関係ない”と知らんぷりをする
  3. ”そんなアドバイスは言った記憶もない”と逃げる

 

1の選択肢がまさにリスクテイクの発想で、2、3はリスクテイクをしない人でタレブ氏にまっさきに”批判”される人たちです。

 

本書ではその代表例として、コンサルタント、テレビのコメンテーター、大学にはびこる学者、適当な論文をあげることを生業としている研究者などをあげています。

 

私もテレビのコメンテーターのほとんどに対して嫌悪感を感じずにはいられないので共感できる一方、自分はどうなんだ、と改めて自分の言動を振り返ると・・・

 

人の人生、どう過ごそうといいのですが、自分が少ない情報の中で「どういう人を信用するか」と考えるときの指標になります。

 

”リスクテイク”をすること、それが”身銭を切る”ことで、さらにそれを”魂をささげる”という言葉で表現しています。

 

 

不寛容

これは言われてなるほど、という新しい言語でした。

 

文字通り寛容”しない”ということです。

 

あるグループにあって、少数派の意見が最終的にそのグループを席巻する、という研究結果について語られているのですが、その理由というのが不寛容、なんですね。

 

たとえばあるグループでこんなルールがあったとします。

 

河川敷では喫煙禁止

 

ところが一部の愛煙家が猛反対。

 

この一部、というのは全くの少数派です。

 

ところが、多数派の人たちは普段あまり河川敷にいかなかったり、河川敷は広いから喫煙者がいても迷惑じゃないし、みたいな事を考え、「河川敷で吸っても構わない」という”寛容”の姿勢をみせます。

 

一方愛煙家は「禁煙であるルール」に”不寛容”なんです。

 

結局、この”不寛容”な態度によって、そのグループでは

 

河川敷では喫煙可能

 

とルールが変わりました。

 

とざっとこんな流れです。

 

こういったことが実に身近に起こっていることにはっと気付かされる気がしました。

 

 

 

不寛容、って言い方変えると、”こだわり”でもあるかもしれません。

 

こだわりが強い人が、それを受け止めてくれる人を飲み込んでいくんです。

 

本書では宗教の拡がりと合わせてこの現象を語っていました。

 

確かにシェアハウスの運営をやっていても、そういう一面はありますね。

 

「他の人が受け入れられるなら少数意見の希望をうけいれてもいい」ということ。

 

 

 

インターネットの発達で、身の回りに文字・画像・映像の情報が反乱するようになり、どれが自分にとって必要な情報かを選ぶこと自体が難しくなってきています。

 

一方で情報発信源とのかかわりはますます薄くなり、まるで二次、三次、それ以上の次元の情報で作られた風船の上に乗ってふわふわしているようです。

 

だから、どうしても一次情報の欠落しがちな普段、信用たる二次、三次といった情報源をもてるかどうかは、自分の行動に大きな影響を与えるはずです。

 

今の新型コロナ情報の話にしても、医学的な話については、論文や研究結果を直接見ている人はとても限られた人たちで、我々が目にしているのはほぼほぼ「間接的」情報です。

 

だからこそ、情報を提供してくれる”人”がどんな人かを知る必要があり、その人に対する視点を持つ必要もあると思うのです。

 

私自身も踊らされないようにしないと、と自省する次第です(^^)

 

 

ちなみに本書の原題である”Skin in the game”とは、投資の世界で使われる言葉で、

 

自己資金で投資をすること

 

を意味するそうです。

 

文字通り”身銭(自己資金)”を”切る(投資する)”ということですね。

 

「投資」はその結果がどうであれば、”投資した人がその結果の責任のすべてを負う”が基本です。

 

トレーダーの著者らしい題名のつけかた、かもしれません(^^)