今年1月に日本橋を出発して始まった東海道五十三次のウォーキングもついに中間点袋井宿を通過して後半戦に入りました!
今回は袋井宿から見付宿です。
袋井宿の問屋場跡。問屋場には大きく2つの仕事がありました。一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというものです。もう一つが幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚(つぎびきゃく)といいます。
(説明文:「問屋場」(といやば)とはどういう施設ですか?から引用)
袋井を描いた絵についての解説。
幹線から一旦脇道に抜けます。
広重の袋井宿の絵。
木原一里塚跡。日本橋から61番目の一里塚です。
木原畷の古戦場跡。武田信玄が遠江国に進軍してきたときに徳川方と戦った合戦場。
武田家家臣の笹田源吾の供養塔についての表示。偵察にきた笹田源吾が徳川方にバレて捕まり討ち取られたのですが、その後いろいろな災難があったため祟と恐れ石仏を設置したと伝えられているそうです。
鎌倉時代の古道の標識。ここには入りません。
大正の道、の石碑。
鎌倉時代、大正、ときて今度は明治(^^)
そして”江戸時代”の古道の入口。
山の中を突っ切っていきます。
「江戸の古道」の石碑。ここが江戸時代に利用された東海道、ということになります。
山を抜けました。
「立場跡」。宿と宿の間にある休憩処。
東海道と言えば松並木。ここにも並木道があったようです。
ここから西が見付宿という表示ですが、実際はここは見付宿の入口ではなかったようです。
行人坂の表示。かつて坂下に行人(山伏)がいたことから名付けられた坂の名前。
ここは右斜前み進路をとります。
木戸跡まできました。宿の入口になります。
道がぐいっと曲がっていて、いくつかの宿と同様わざと曲げることで敵に侵入をゆるめる役割を担っています。
裁判小路と呼ばれていたことを示す標識。道路に埋め込まれています。
見付宿の当時の様子を描いた絵図。
東坂梅塚の標識。梅塚というのは、見付天神の祭りの夜、怪物に娘をさしだした家の前にそのしるしとして植えたものだといわれているそうです。
(説明文:http://www4.tokai.or.jp/nekohimeusa/iwata/mituke/mituke.htmlから引用)
問屋場跡。今は静岡銀行になっていてその標識が建てられていました。
本陣跡も同様。当時の様子を伺うことができなかったのは残念。
見付宿に到着です(^^)
約7キロメートルの歩行距離でした。比較的わかりやすい道のりで、史跡や標識も多かったのでこの宿間は楽しめた行程でした(^^)