後半戦に突入した東海道五十三次、いよいよ浜松に向かいます。
見付宿脇本陣大三河屋門。小さいながら薬医門の形をしているんだとか。薬医門とは「門柱(本柱)の後ろに控柱が2本設けられた門の総称」で柱が4本存在します。
西坂の梅塚あたり。東側にも梅塚があったことは前回お伝えしました。こちらは西側に作られた梅塚です。
西木戸があったあたり。宿のいわゆる京都側の玄関口です。
遠江国分寺跡を表す石碑。国分寺の歴史は奈良時代の聖武天皇の時代にさかのぼり、西暦741年頃と言われています。
遠江四十九薬師霊場。享保年間に開創されたとこの解説板に記載されています。
府八幡宮。国府の守護神として勧請され、本殿は1617年徳川2代将軍秀忠の娘東福門院が寄進したそうです。
ずっと南下して左手にあるホテルが右折ポイントの目印。この信号を右折して西へ向かいます。
このあたりは中泉という地域になるようで、江戸時代と大正時代の町並みについて紹介してくれています。中泉交流センターに掲示されています。
物盗りに殺されたインド人の旅僧(黒坊大権現)を祀っている「くろん坊様」。咳や熱病にご利益があると言われています。
このあたりの坂は「大乗院坂」と言われていて、坂の途中にあった山伏の寺大乗院があったところに由来しているそうです。
長森立場がこの先にあったと伝えられている、と記している解説板。あかぎれや切り傷に効いたとされている膏薬(こうやく)「長森かうやく」が人気だったそうです。
この交差点の左から曲がってきました。目印がない^^;;
持ってきていたガイドブックではこのあたりに「スロットモンキー」という建物があったらしいのですが、名前から想像するにスロットかパチンコの遊技場だったと思われ、残念ながら解体されているところでした。
そしてここを左折する(^^)スロットモンキーがなくなったら目印はどうしたらいいんだろう(^^)
そしてついに天竜川です。富士川、安倍川、大井川、天竜川と静岡を流れる大きな河川を渡ってきました。ここも広い川幅です。
天竜川は南側に車両専用の橋があり、そこを渡って北側にある歩道のある橋を渡ります。これがなかなか危険は道路横断です(^^)
天竜川橋の歴史を紹介してくれている看板。なかなか年季入っています。
天竜川を渡って南下したところにある六所神社の近くにある標識。
このぽつんとある看板。中野町銀行跡を表した看板です。中野町銀行は明治に入ってから設立された銀行で、後に西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て今の静岡銀行に吸収されたそうです。昭和49年まで建物があったそうです。
天竜川橋紀功碑。天竜川に橋をかける作業に功績をあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑。明治の人のようです。
存在感のある建物だったのでおもわず写真にとってしまいました(^^)なんの建物かは不明。。。
東橋跡。かつてここに小川が流れていたんだそうです。そこにかけられていた土橋の一つがこの東橋とのこと。
軽便鉄道軌道跡。軽便鉄道は明治42年から浜松と中野町の間11駅間を走っていた鉄道だったそうです。「けいべん」と親しまれていた列車はミニSLで客車一輌をひいて、家並みの軒先すれすれを走っていたんだとか。今の江ノ電みたいな感じでしょうか。昭和12年に廃線。
天竜川駅近くにある案内板。この一帯の東海道に関する史跡について案内してくれています。
その後はひたすら歩いてだいぶ浜松に近づいたところにある馬込の一里塚跡。日本橋から65番目です。この前の金原明善生家のあたりに安間の一里塚跡があったはずなのですが、見つけることができませんでした。
現在の馬込橋。ここに外木戸跡があるらしいのですが、みつけることができず。浜松宿の江戸側の入口です。
浜松に入った当日は脚がパンパンだったのでホテルに直行してしまい、浜松の本陣跡(佐藤)には翌朝向かいました^^;;
浜松の本陣跡はこの佐藤の他に、梅屋、杉浦、川口があります。
見付から浜松はなんと16キロメートルにも及ぶ長距離。
ついに現在の静岡県の西の端近くまでやってきました。