48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

東海道五十三次ウォーキング 桑名宿〜四日市宿(2)

前回に引き続き、四日市宿への道のりです。

 

西光寺を過ぎてこの三叉路を左折しますが、ちょっとわかりにくい。と前方になにやら看板が・・・

 

ありがたい(^^)「助かるでござる」と一人つぶやき左へ向かいます。

 

伊勢湾岸自動車道の高架をくぐると朝明川(あさけがわ)を渡ります。日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で朝明けを迎え川水で口をすすいだ、と伝えられているところらしい。

 

左に看板が見えるところが松寺の立場跡。

 

蒔田(まきた)の交差点。この一体は中世蒔田氏の支配地だったところだそうです。

 

三光寺。蒔田相模守宗勝の墓碑があるそうです。

 

このT字路を左へ展開します。

 

富田の一里塚跡。江戸日本橋から98番目。

 

直進しちゃいそうですが、左の電信柱にご注目(^^)「右 東海道」の文字があります。そうここで右折です。

 

このあたりはこのように私設の表示版がいくつかあり、とても助かります(^^)

 

明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡碑。富田小学校正門脇にあり、広瀬五郎兵衛方で休息し「焼き蛤」を賞味したんだとか。

 

特別な史跡ではないのですが、立派な古い家だなぁ、と思って思わずパチリ(^^)

 

こここをぐっと左折します。正面に看板がみえます。

 

 

それがこちら。力石。重さ三十二貫目(約120キログラム)ある石です。明治の中頃にこの村にある寺の御堂を再建するに当たり各所より土台石の奉納があって、運ぶ際の休憩時に体力を貯めさんと持ち上げ競い合ったと伝えられているそうです。

 

八幡地蔵尊堂。

 

氏神社社標。天武天皇伊勢神宮を遥拝した際に”しで”を奉納したことが社名の由来になっているそうです。二の鳥居は1859年の建立。

 

光明寺弘法大師が小堂を建てたのが始まり。

 

またもT字路でここを左折。

 

久しぶりに国道1号線に合流です。

 

橋の手前で一旦外れます。

 

こんな感じに。

 

河原に三ツ谷の一里塚跡。塚は海蔵川拡幅に伴い川中に埋没したんだそうです。

 

その海蔵川。ここを渡って国道1号線を離れて南側に平行に走る道に移りますが、このとき道を間違えてそのまま1号線を直進しちゃいました(^^)

 

三滝川。ここまで来ると四日市の街はもうすぐです。

 

笹井屋。創業1550年銘菓「なが餅」の老舗。江戸時代初期にこの地を治めていた藤堂高虎足軽時代から「武運の長き餅を喰うは幸先よし」と好んだという逸話があるそうです。

 

帯屋脇本陣跡。現在は近藤建材店となっています。

 

今は福生医院となっているこの場所は、問屋場跡。

 

現在黒川農業商会となっているこの場所が四日市の黒川本陣跡。1811年にそれまで二番本陣だった太田家が没落したことをうけて黒川家が二番本陣になったという。

 

このあたりは先程ふれた藤堂高虎が支配していた地域なんですね。

 

藤堂高虎浅井長政につかえていて、信長に浅井家が滅ぼされた後浅井氏旧臣に使え、そこを離れて秀吉の弟秀長に仕えます。秀長死後甥で養子の羽柴秀保に仕えますが秀保が早逝したため出家します。

それを惜しんだ秀吉が呼び戻し還俗して大名に復帰、秀吉死後は家康に仕えるようになります。そこで見込まれて外様としては異例の待遇をうけ明治時代まで藤堂家はこの地を治めることになります。

 

 

長い行程でしたが、なかなか見応え歩きごたえのある道のりでした。