吉村昭作品、今回読んだ本はこちら。
1915年(大正4年)北海道西北部の北海道苫前郡苫前村三毛別(現在の苫前町三渓)六線沢で発生した、ヒグマによる殺傷事件を小説にしたものです。
雪積もる12月にヒグマが小さな村を襲い、7人(1人は胎児)が死亡、3人が重傷を負ったもので、死亡した7人のうち、女性だった2人はヒグマに食べられてしまったという凄惨な事件でした。
通報により警察が出動し、数十人の猟師をひきつれて駆除を試みるものの、猟師の中には恐怖に怯えてなにもできなかったり、持ってきた銃が機能しなかったり、ということもあり駆除にいたらず。
帯同していた熊を100頭以上斃した実績がある猟師銀四郎(実際の名前は山本兵吉)は「熊は大勢でおいかけると警戒して捕まえられない」と単独で裏にまわり、警察隊を警戒して見下ろしていた熊の背後から心臓と頭に銃撃しついに駆除を果たします。
この小説では、実際にあった事件を時間の流れに沿ってみせていますが、そこに関わっていた人たちの内面を実にリアルに描いているのが印象的です。
妻をヒグマに食われてしまった旦那、地域のまとめ役である区長、警察から派遣された分署長と若い警官、被害にあった六線沢の住民たち、三毛別の猟師たち、孤高の猟師銀四郎。
ヒグマに怯える村民たち。普段自慢話をしていたくせにいざとなった銃が不発になって面目丸つぶれの漁師たち。警察の権威を存分に見せつけつつも、サーベルと制服というみてくれに依存しているにすぎず、ヒグマという怪物の前にはなんの役にもたたない警察官。酒乱のため人と交流がもてないが、熊と対峙するときは一番冷静に熊の行動を読んでいた銀四郎。
恐怖、不安、安堵、嫉妬、信用、疑心、そういったたくさんの感情が表現されていて、まさに人間ドラマという作品です。
一方、当時の世相をこの小説から垣間見ることもできます。
1915年は第一次世界大戦が勃発した年で、日本は急速な近代化によってようやく世界に経済的に追いつきつつあったその一方で、北海道にはまだまだ未開の土地があって、この部隊となった三毛別の六線沢も移住者がようやく生活の基盤ができ始めたころ、だったようです。
生活は楽でなく、家もわらをふいてかろうじて形をなしているくらいで、板壁を有していた家はわずかに1件。
このあたりは羽幌線という国鉄がありましたが、開通はこの三毛別羆事件から遅れること12年の1927年(昭和2年)で、苫前駅は更に遅く、1932年(昭和7年)に開業しています。
小説の末にも記載されていますが、この小説は木村盛武氏(元旭川営林局農林技官)がまとめた「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を参考資料としています。
この事件は時間とともに人々の記憶から消えていきます。しかし「このような歴史的な獣害事件の記録を残さないのは学術的にもよくない」と木村盛武氏が当時の様子を知る人達から聞き取りをするなどしてまとめたものらしいです。
従って確実な記録というものが残されていない中で、数少ない資料を元に想像力を如何なく発揮し、あたかも実録のような印象をうけるのは、さすが吉村昭氏です。
内容はなかなか怖いですが、読み応えのある小説です。