今回の課題図書はこちら。
著者の東氏は批評家及び哲学者として活躍されている方です。
哲学的な視点をベースに今後人々が共に幸せに暮らしていくために「訂正する力」が必要ではないですか、という投げかけが本書のざっくりした要旨です。
「訂正する力」というのは、本書を読んで気付かされた概念でした。
著者はその「訂正する力」は「じつは・・・だった」と表現されることが多い、と紹介しています。
もともと持っていた知見に対して、新しい知見を得たときにその要素そのものあるいは一部を取り込むとき、「じつは・・・だった」と表現できるということです。
たとえば「Aさんはとってもネクラな人だ」と印象を持っていたとします。
そこにAさんを知っている人から「この間Aさんたちとお茶したときに、とても笑顔で楽しそうに話していたよ。そうなるまでにちょっと時間がかかったけどね」と話をききました。
「あ、Aさんは”じつは人見知りがちょっと強い人だ”ったんだ」と、Aさんに対する印象が変わります。これが「訂正する力」です。
人も環境も時代も、時間を経るごとに変化をしていくし、アップデートもされていきます。
そんな状況で、一度いだいた印象をずっと引きずっていくと、実態と自己認識が乖離してしまう恐れがないですか、と著者は問いかけています。
そんな事例のたとえとして本書では「保守 vs リベラル」がよく取り上げられており、「訂正する」ことができない「リベラル」はかなり批判対象となっていました(^^)
どう批判しているのかは本書をぜひ読んでみてください(^^)
これまでの歴史上、日本は多くの「訂正」をしてきたように感じます。
仏教伝来で神道からの訂正(実は神仏共存は長く続く)
キリスト教の受容と排斥の繰り返しという訂正(一時期禁制となるが共存している)
朝廷政治と武家政治の訂正(主体は移っても双方で利用し合っている)
封建社会から民主主義への訂正(封建的な概念は実は残っていて共存している)
会社中心からプライベート中心への訂正(仕事とプライベートのバランス重視)
個人ベースでいえば、考え方や視野がいつの間にかいろいろ変化してきたことがあるのではないでしょうか。
それがまさに「訂正」してきたことです。
「ぶれない姿勢」がよく持ち上げられますが、この本では「それでいいですか?」と問いかけてきます。
「ぶれない」はすなわち「訂正しません」と宣言しているようなもので、時の流れによる変化から乖離してしまうでしょう、と。
この本を読んで、私自身もどんな「訂正」をしてきたのだろう、とちょっと振り返ってみました。
思えば「訂正」ばかりで、むしろ「芯がないんじゃないか」と自己懸念するくらいです。
特に会社を退職して独立してからは、意識して”訂正”をすることがありました。
その一つは「目標を固定しない」こと。
典型的なのは自分の事業ですね。事業といえば、売上や利益をKPIにして目標を定めて会計年度内の達成を目指す、という「目標を設定しそこから逆算して活動内容を定める」スタイルが”常識”とされています。
実際私が企業で事業計画を担当していたときはそうでした。
今は「目標」ではなく「イメージ」を持つようにして、眼の前のことを一つ一つやり切ることに注力しています。これまでとは真逆のスタイルです。
まあ、私1人の会社で社員への責任もないので、自由にできる側面があるという背景はありますけどね(^^)
私にとって「1年先」は予測不能で、「今」の知見で設定した前提で1年後の目標を設定しても、2〜3ヶ月経てばその前提が崩れてしまうわけで、結局「目標修正」をしなくてはならなくなります。
なので、前提が崩れるような変化があればそれに少しでも追従できるような体制にして、1年後は「結果」として受け止めよう、と考えるようになりました。
ただ、日々の行動を積み重ねる先のイメージは持つようにしています。
そういう意味では「日々訂正」の運営をしているのかもしれません。
また個人のポジションについても意識的に大きく「訂正」をしたことで、気持ちに余裕が生まれました。
シェアハウス環境に身を置くことで、知見についてもたくさん「訂正」をしてきた気がします。
そういう意味で本書はなかなか共感できるところが多かった本でした。
あえてクリティカルな視点を持とうとすれば、「訂正する力」がない人たちとどう対峙していくか、ということ。
「訂正する力」は「力」と表現されているように、個人・組織ごとにそのレベルには差が生じるし、この本でも批判対象となっているリベラルを始めとする「訂正する力」がない個人・組織もあります。
そういう個人・組織はある一定割合で存在しているだろうし、そういう個人・組織も社会の一員でもあります。
私個人だけであれば、そういう個人・組織と距離を置くことが可能ですが、国や自治体、大企業といった大きな組織ではそういうわけにもいきません。
”公平性””公共性”という役割や性質があるからですね。
アメリカではトランプ政権が動き出しました。これまでのバイデン政権の政策の多くを”否定”して、”訂正”ではなく”修正”してきそうです。
今までのことを捨てるのではなく新しいことを加えることで新しい知見とするのが”訂正”なのに対し、今までを否定し新しいことに置き換えるのが”修正”と著者が区別していましたが(私の解釈も入っています)、大きな力をもつものが”修正”を迫ってくる恐れを感じます。
この本を読んでトランプ政権の政策への関心が高まった気がします。
