今回の読書会の課題図書はこちら。
哲学をテーマにしたエッセイ、というところでしょうか。
哲学と聞くと、うーん、と引いてしまう人の方が多いんじゃないか、と想像します。
かくゆう私もその1人です。
「少しは教養つけたい」と哲学書なるものをあさってみるけど、結局は何もわからないで終わってしまうことばかり(笑)
でもこの本を読むと、そもそも「哲学書を読んで教養つけよう」という考え方自体がナンセンスだと思わされます(^^)
本書によると、哲学は「問い」だと。
「なぜ?」とか「なに?」という「問い」をし、その問いについて「考え」ることで自分の殻を破っていくことの繰り返し。
つまり「考え続ける」ことでもあるんだ、というのが私の解釈。
大胆に言ってしまえば、「考え続ける」ことは「生きる」ことでもあり、決して楽ではないとも。
「水中でもがくよう」に一生懸命考える。
それは特定の学者だけでなく、誰でもが体験することだから、誰もが「水中の哲学者」なのかもしれません。
本のタイトルはそこからきたのかなぁ、と読書会でのおしゃべりを通じて感じました。
私は著者のことは知らないのですが、本書を読むと、どちらかといえば「人見知り」で人と争うことが苦手な方、という印象を受けました。
そんな方が10年以上も続けている活動が「哲学対話」。
学校やコミュニティーの集まりなどで、お題を決めてみんなで意見交換をし合う、という活動です。
著者はそこでファシリテーターとして、みなさんの議論を広げたり、深めたりするお手伝いをされているようです。
スマホやネット、SNSが発達したこの時代に、対面で時間をかけて複数の人達と話をすること自体、機会を持ちにくくなってきているように思えるので、この企画自体、とても有意義なことだな、と感じます。
そして、「対話」とあるように、お互いに意見や感情を提供し合って、それを「受け止め」て自分の世界の殻を感じる、という体験もまたなかなか持たなくなってきたように思えます。
むしろ、「分断」とか「対立」という言葉の方が普段目にすることが多くなったのではないでしょうか。
異なる意見、立場、前提を持った人が複数集まるということは、それぞれの人達が「違う土俵」に立っているということ。
「違う土俵」自体は、それはそれで「アイデンティティ」でもあり、自然なことだと思います。
ではその違う土俵にいる人達の間に「橋」ができたらどうでしょう。
お互いに行き来することができるようになり、それは「自分とは違う土俵」という「新しい世界」を知ることにもなります。
この新しい世界を知るためには、自分とは違う土俵、すなわち「相手」を受け入れることが必要です。
でもときに受け入れられないこともあります。それが自分の世界の「境界」線となり、嫌悪すれば「分断」や「対立」を生むことになります。
哲学を「問い」とするならば、「哲学対話」は「問い」をし、その問いについて考え、相手に返す、という行動と言えるでしょう。
それを繰り返すことで、今まで感じていた自分の「境界」が変化していくかもしれません。
それが積み重ねられることで、「分断」や「対立」を生まずに済むこともあるかも。
そんな可能性をもたらしてくれるのが「哲学」ではないか、と著者がエッセイを通じて語りかけているような気がします。
そういえば、課題図書をみんなで読んで定期的に自由に自分の感想や意見を披露し、それにツッコミいれたり気づきをもらったりするこの読書会も、ある意味緩い「哲学対話」なのかもしれません。
自ら「問い」をしなくなったとき、それが「思考停止」なんでしょうね。
「問い」を重ねて「決断」をし「行動」に移った後、その「決断」の内容に固執することは、いい意味では「一貫性を保つ」ことになり、一方で「自分の境界を固定する」ことや「変化を受け入れない」ことでもあり、良い悪いは簡単には語れません。
一方、「決断」後もまた「問い」を続けて軌道修正をすることが起きた場合、逆の評価となるわけで、これも良い悪いを語るのは容易ではないです。
相手を「〇〇な人だ」と評価するのも、一つの決断。
その決断に固執しすぎると、相手の変化を受け入れられなくなってしまいます。
それはもったいない(^^)
一方で相手にも譲れないところがあれば、「〇〇な人だ」という評価は変わりません。
人って両方の要素を持っていそうです。変わる面と変わらない面。
だからある人をみるときに「〇〇な人だ」と一面だけでみるのは、他の面を見落とすおそれがあって、これこそがもったいない。
一旦「決断」や「評価」をしても、その後も「問い」続けること、(著者によればそれは)すなわち「哲学をし続けること」が、移りゆく現世を生きていくこと、と私は”一旦”(笑)解釈しました(^^)

