48歳からの挑戦

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読後感想〜超訳 歎異抄

 

安永雄彦氏の『超訳 歎異抄』を読みました。

 

本書は、浄土真宗の開祖・親鸞の教えを現代の言葉でわかりやすく解説した一冊です。

 

『歎異抄』は、親鸞の死後、その教えが本来の意図から離れて伝わっていくことへの危機感から、弟子によってまとめられたものです。

 

そこでは一貫して、「人はどのようにして救われるのか」という問いに向き合い、その答えとして「他力本願」という考え方が示されています。

 

一般的に「他力本願」という言葉には、どこか他人任せのような印象があります。

 

しかし本来は、人間の力ではどうにもならないことを前提に、阿弥陀仏の本願に身を委ねるという意味です。

 

この前提を理解するうえで重要になるのが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という一節です。

 

この言葉に触れたとき、私は強い違和感を覚えました。

 

善人よりも悪人のほうが救われるという考え方は、これまで自分が持っていた価値観とは大きく異なっていたからです。

 

私たちは通常、善人とは正しい行いをする人、悪人とはそうでない人と捉えています

 

しかし親鸞のいう善人とは、「自分は正しく生きている」「善い行いができている」と考えている人を指します。

 

一方で悪人とは、自分の弱さや煩悩、思い通りにならない自分を自覚している人です

 

この定義に触れたとき、自分の認識との間に明確なズレがあることに気づかされました。

 

そして、そのズレを考えていく中で、次第に「他力本願」という考え方への理解が深まっていきました。

 

そもそも、生きていると自分の思い通りにならないことが数多くあります。

 

努力しても結果が伴わないこともあれば、そもそも努力の余地すらないような状況に置かれることもあります。

 

こうした経験を重ねる中で、自分の努力だけではどうにもならないことが少なくないと感じるようになりました。

 

そう考えると、人間よりももっと大きな何かが、自分の人生に影響を与えているのではないかという感覚が生まれてきます。

 

そして、その存在を前提にしてみると、これまで受け入れがたかった現状にも、少し違った見方ができる余地が生まれるように思います。

 

このような感覚が、「他力本願」という考え方につながっていくのかもしれません。

 

そしてそれは、自分の力だけではどうにもならないことを認め、そのうえで大きな存在に身を委ねるという姿勢であり、ここ近年に自分でも感じるようになった感覚でした。

 

実際、日常の中でも似たような変化を感じる場面があります。

 

シェアハウスで暮らしていると、人それぞれの生活スタイルがあります。

 

自分にとっては違うと感じることも、相手にとっては当たり前のことだったりします。

 

以前はそうした違いに対して違和感やストレスを感じることもありましたが、相手の好みや嗜好を変えようとするのではなく、「そういうものだ」と受け入れるようになってから、気持ちがずいぶん楽になりました。

 

この経験を振り返ると、「自分ではコントロールできないものを受け入れる」という点で、「他力本願」とどこか通じるものがあるように思います。

 

すべてを自分の思い通りにしようとするのではなく、どうにもならない部分を前提として受け止める。

 

その姿勢が、結果として自分自身を楽にしているのかもしれません。

 

また、このときに想定される「大きな存在」は、浄土真宗においては阿弥陀仏ですが、宗教によっては神であったり、あるいは自然そのものであったりと、その表現はさまざまです。

 

私自身としては、人格的な存在としての仏というよりも、山や川、動植物といった自然の中にその存在を感じるほうがしっくりきます。

 

ただ、形は違っても、「人間を超えた何かに支えられている」という感覚には、どこか共通するものがあるように思います。

 

さらに考えていくと、なぜ人は思い通りにいかないことに苦しむのか、という問いにも行き着きます。

 

親鸞でさえ煩悩を捨てられないと語っていることを踏まえると、人は本質的にそうした葛藤を抱えた存在なのだと思います。

 

その背景には、「人はいずれ死ぬ」という事実に対する不安や恐怖があり、それゆえに「生きたい」という欲が生まれるのではないでしょうか。

 

煩悩とは、その欲の裏返しとも言えるのかもしれません。

 

このように考えていくと、人はどれだけあがいても、自分よりも大きな存在には抗えないのだという感覚に行き着きます。

 

しかし、その感覚は決して無力感ではなく、むしろ自分の立ち位置を正しく認識することにつながるように思います。

 

そしてそれが、他者に対する尊重や、よりよい関係性の基盤になるのではないでしょうか。

 

最後に、本書を通じて感じたことは、必ずしも浄土真宗の教えをそのまま正確に理解したものではなく、あくまで自分自身の経験や感覚に引き寄せて解釈した部分も多分に含まれていると思います。

 

ただ、そのように自分なりに咀嚼しながら読み進めること自体が、この書の持つ意味の一つなのではないかとも感じています。

 

宗教書という枠を超えて、本書は自分自身の在り方を見つめ直すきっかけを与えてくれます。静かに考えたいときに、また読み返したい一冊です。

 

 

ハウスの桜、定点観測です。だいぶ咲いてきましたね。

 

下段はほぼ満開です(^^)