今回の課題図書は、こちら「誘拐」です。
東京オリンピックの前年1963年(昭和38年)に起きた「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件」を描いたノンフィクション小説です。
東京台東区の公園で遊んでいた吉展ちゃんが、小原保という時計職人に誘拐され、家族は身代金を要求されました。
警察の一瞬のスキをつき、警察の初動ミスもあって身代金はまんまと奪われ、肝心の吉展ちゃんは帰ってこず、迷宮入り寸前になります。
2年後捜査をやり直ししたところ、当初より容疑者の候補にあがりつつも、証拠不十分、アリバイの存在のため調査にまで至らなかった小原が再び容疑者としてあがってきました。
アリバイを崩された小原は犯行を自供。自供に基づいて吉展ちゃんの遺体が墓地で発見されました。
死体はすでに白骨化しており、小原の自供によると誘拐してすぐに殺害したことが判明。身代金の要求をしていたときはすでに吉展ちゃんは亡くなっていました。
小原は1966年一審で死刑を求刑され、その後上告をするも1967年最高裁で上告が棄却され、死刑が確定し、1971年に執行されました。
このあらすじだけだと、罪のない小さな子供を誘拐し、殺害した挙げ句に知らぬ顔で遺族に身代金を要求し、まんまとせしめたという極悪非道な事件、ということで終わってしまいます。
この本は、吉展ちゃんの遺族はもとより、犯人の小原、当時小原の愛人でほど同棲状態だった成田キヨ子、小原が努めていた時計屋、小原の親族、小原と付き合いのあった関係者、第一回から第三回に至るまで捜査に関わった警察関係者など、それぞれの人物像に入り込んでいて、事件を広い視野から捉えようという試みを感じさせられます。
著者があとがきで「これ(この本)を元にテレビ化され(中略)放映されたあと、プロデューサーと監督が(中略)挨拶に出向いた際、遺族が『(中略)犯人の側にもかわいそうな事情があったことを理解出来た』と(中略)述べられた」と記載しているように、犯人憎しの遺族にも一定の評価をうけているようです。
いろいろな登場人物が、ザッピングみたいに登場してくるので、吉展ちゃん事件を知らない人がいきなりこの本を読むとちょっと混乱するかもしれません。
Wikipediaなどで、吉展ちゃん事件の概要をある程度予備知識を得て、吉展ちゃんは村越家で、犯人が小原保、その愛人が成田キヨ子、くらいの主要人物を頭においてから読むと、まるでドラマや映画を観ているように、むしろザッピングのような展開の変化が、本書のストーリーに動きを与えるように感じます。
犯人の小原保は、本書では最後は人間らしく死んでいきたい、と死刑を受け入れて改心したという流れで終わっていますが、上告審では自白の内容を修正しています。ただそのことは、本書では触れられていません。
自白の修正が受け入れられていれば、殺人罪ではなく過失致死罪になって死刑を免れる可能性があったようです。
小原の自供を引き出したのが昭和の名刑事と言われている平塚八兵衛。実はこの事件の前には帝銀事件で当時の捜査本部の方針に反対し独自に調査を進め、平沢貞通死刑囚を逮捕にこぎつけた実績があります。
しかしご存知のようにこの事件、平沢死刑囚は冤罪を訴えているので、真犯人かどうかは不明です。
また平塚八兵衛は、吉展ちゃん事件のあと三億円事件にもかかわったが、自身がリークした情報を元に誤認逮捕してしまった被疑者がその後自殺する、ということもありました。
多くの事件を解決してきましたが、いわく付きとも言えなくもありません。
私が生まれる前に起こった事件で、戦後わずか20年にも届かない時代、まだ生きるということに一生懸命で、部落や閉鎖的な社会がまだまだ根強い日本で、一方では東京オリンピックを軸に高度経済成長まっしぐらだった日本の社会の、なにかこう引き伸ばされたチューイングガムのような、不快感のある歪みたいなものを感じさせられました。
今の時代、コンプライアンスや人権といった概念が広まりつつありますが、逆にそういった歪が表に出にくくなってきているのかもしれません。
犯罪の裏には何かしらの歪があるというのは、いつの時代でも変わらないのかもしれません。