どんな本?
これまで日本人の思想に影響をあたえてきた数多の人々の中から、西行、親鸞、鴨長明、吉田兼好、世阿弥、松尾芭蕉、西田幾多郎が唱えてきた思想を軸に、日本文化の一端をまとめようと試みた本です。
著者は序章で
「日本の詩歌や芸術、宗教の歴史をふり返り、その『自画像』を描きだしてみたい」
と述べています。
格差拡大、対立や軋轢が目立つ現代では、民族、宗教、肌の色、性別など異質のものを見つけては排斥するという行為によって、自分の存在意義を確かめようという風潮を著者は感じているそうです。
そのためには「対話」が必要で、対話するためには己の自画像を持っておく必要があるだろう、なので日本人としての自画像を描くことを試みた、これが著者の意図であったことが同じく序章で述べられています。
この本を読んだものとして、「どんな本か」と問われれば、
「無欲であることを美しいとする思想が古来より受け継がれていることを紹介した本」
という印象です。
最終章に登場する西田幾多郎に著者が大きく影響をうけていて、そこが軸になって時代を遡っている感があります。
なので「日本文化」としてくくることには「そういう面はあるけれど・・・」と、まだ何か抵抗を感じました。
読書会では「これは特権階級の戯言ではないか」という解釈もありました。
登場人物を見ると、西行は元武士であり、親鸞は法然の元で早くから仏門にいました(当時は仏教は保護対象)。鴨長明は賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の生まれで従五位下をうけていたし、吉田兼好は神職の家柄、世阿弥は大和猿楽の有力な役者を親に持ち、興福寺の庇護をうけていました。松尾芭蕉は出生については諸説あるようですが、句会では著名で裕福な人達の庇護があったはず。一説によると仙台藩密偵のため幕府からかなりの援助があったという説もあるそうです。西田幾多郎は元々は大庄屋の生まれ。皆さん実は、ある意味生活に困らなかった人たちです。
ある意味満たされたところから生まれた別世界、乱暴な言い方をするとそういう面がこの思想にはあるのではないか、という指摘でした。
おさえておきたいところ
文中では登場人物の著作や言葉の引用がかなり出てきます。西行の歌、親鸞語録としての歎異抄、鴨長明の方丈記、吉田兼好の徒然草、世阿弥の却来華、芭蕉の句集などなど。。。
学校の授業で古文が苦手だった私は、これらにおける知見をほとんど持ち合わせていません。学校で習ったはずの方丈記、徒然草にいたっても忘却の彼方です。
私の印象では全体の1/3くらいは引用なので、それらが意識に入ってこないと、かなり乱暴な斜め読みになってしまいます。実際私もそうでした(^^)
これらはもしかしたら「教養」と呼ばれるものなのかもしれません。それには「でもそんな教養は必要なのだろうか」という意見もありました。
確かに知ってることは悪いことではないですが、それが何かコミュニケーションに活かされるかと言うと、そもそも興味を持っている人が周りにいなければ、宝の持ち腐れ。
人に披露しないまでも自分の思想を形成するのに、このような思想を選ぶ対象とするかどうかもその人次第です。
どちらにしろ、ある程度古典に馴染みがある、興味があるということがこの本を読むには必要な気がしました。
これから
この本を読んですぐに自分の行動に何か反映させよう、という気持ちは残念ながらでてきていません。そもそも、実用書ではないので自分の今後の思考の材料の1つとして、自分の脳に小さなフックが残ればそれで良い気がします。
私はこの本で紹介されている思想の「無常」という感覚は、東日本大震災をきっかけに感じるようになりました。
会社をやめて今の仕事をするようになったのも、震災の影響はとても大きく、結果的に「無常」の感覚をもったことと無関係ではないかもしれません。
なので、読みながら違和感を感じるようなことはありませんでした。
これまでの社会は「欲」が成長の原動力だったと思います。欲が今の限界を突き破る力の源となり、新しい世界を創り豊かになっていったのだと思います。
一方で自分と異なる世界を奪うことで欲を満たす面もあり、それが奪われたものを不幸にするという歴史も長く刻まれてきました。この面だけに注目すれば、欲を捨てて無常になることが人類の平和をもたらす、という思想が生まれるのかもしれません。
しかしホモ・サピエンスである我々はこの世に登場してから多くの生物を滅亡させて反映してきた歴史があります。(ホモ・サピエンス全史から)
うまく表現できないのですが、一種のバランスが求められている気がするのです。
この本で紹介されている内容は、自分の美意識を形成する上で視点の1つとして捉えられればいいのかな、というのが所感です。