昨日は「感情の向こう側」として、自分が関わる人たちの行動理由を探る視点の一つを書かせてもらいました。
今度は自分、すなわち「感情のこちら側」について。
自分も人の子であり、色々な感情があるし、その感情に支配されることは少なくありません。
映画を観て感動した、とか悲しくなった、とか、ではなくここでは人と対峙した時に生まれる感情に絞ります。
ある人のふるまいや、言葉を見聞きした時に、ふと自分の感情が生まれていることに気づくことがあります。
いいなぁ、とか、嫌だなぁ、とか、許せないなぁ、とか。
特に負の感情を感じた時は、その後もその気持ちをひきづってしまうことが多いですね。
後から思うと、なんからもったいない気分になります。
なんで負の感情が起こるのでしょう。
自分が許せるラインを超えたから、でしょうね。
ラインを超えなければ、仕方がないな、と思ったり、全然気にもかけなかったりするでしょう。
テレビであるご老人の殺人事件が起こったとします。
犯人を許せないと思った。
多くの人はそう感じるでしょう。
「こんな抵抗力の弱い老人を殺す」ということが「弱いものいじめ」だからと自分の許せるラインを超えたから、許せないと思った。
でももしこの老人が実は認知症を患い介護していた人が疲弊して絶望感にさいなまれ、発作的に殺してしまった、という背景が報道されたりすると、殺人者に対して同情的な感情が生まれたりします。
「辛いから仕方がなかったのかも」と自分の許せるラインを下回っている状態です。
「いやいや殺人は殺人で許せるものではない」そういう人もいれば、先程のように「仕方がないかも」と同情的になる人もいます。
すなわち違う感情が生まれていて、どちらも嘘でない感情なんです。
立ち返るとこの違いは「許せるライン」の違いから生まれてくるものです。
それは「自分にラインがある」ことを意味しており、それが「価値観」というものなんだと思います。
そしてこの「価値観」は人それぞれであって絶対的なものではないんです。
「怒り」という感情があります。
「怒り」って気分悪いものです(^^)
この「怒り」は実は自分の価値観を相手に強要している感情だと思っています。
なんでわからないんだ。
なんでそんなことするんだ。
私は許せない。
私が許せないことをあなたはするべきでない。
これは相手に対して自分の許容ラインを超えないことを期待していて、その期待が裏切られたために生まれる感情が「怒り」だと言っていると思います。
相手が謝罪してきたら、それはあなたの許容ラインを受け入れるということの宣言。
その部分については価値観を共有できたことになります。
本来なら怒りの原因は解決されているので怒りは治るはず。
でもありますよね、「怒りがおさまらない」(^^)
「この怒りの矛先をどこに向けたらいいのか!」なんていうことはよく経験します(^^)
失ったものが取り返せないと感じる時。
それが大切なものだったりしたら、価値観共有できたからといって取り返せないから「どうしてくれるんだ!」となる。
代替案を受け入れられる変化をすることでこの感情は収まる方向に向かいます。
厄介なのは「そうは言ったってさあ!」とあげた拳のおろし方をおろせない人。
これってある種の「承認欲求」「自尊心充足欲求」なんではないかと思ってます。
そうやって怒るのも最もだ。
あなたは正しい。
そうだよ、その通りだよ。
こんな言葉で沈静化していきます。
自分の感情の内側でこんな根っこがあると思うと、それらに対峙することで少し自分の感情をコントロール出来るような気がします。
かくいう私はまだまだ感情に左右されること数知れず(笑)