前回予告させていただきましたが、今回は東海道五十三次で知立宿と鳴海宿の間にあった「有松」という街についてご紹介します。
知立宿から鳴海宿までは約10キロメートルほどと長いため、尾張藩は桶狭間村の有村集落を分村し、知多半島の阿久比村から11戸を移住させ、有松を間の宿としたそうです。
今の町並みは天明4年(1784年)の大火の後に作られたものだそうです。
実質”宿”がここにもあったということですね。
有松を入るとちょっと趣が異なる町並みになります。
古い建物に「ありまつ」の表示。
服部幸平家住宅の倉。西隣にある絞問屋・服部家から分家した家柄で、かつて屋号を井桁一(いげいち)といったそうです。
こちらは本家服部家住宅。屋号は井桁屋といいます。
こちらは国登録有形文化財の棚橋家住宅。先程の服部家の本家として約50年絞問屋を営んだあと、昭和8年から医院、その後は住宅として使用されているんだとか。
こちらの国登録有形文化財で中濱家住宅。主屋、土蔵、物置、堀、石積みがセットになって残っているそうです。屋号は「ヤマヨ」。
唐子車(からこしゃ)の山車庫(だしこ)。天保年間(1830^1844)に知多内海で造られたものを明治8年に中町が購入、毎年10月の第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳き出されるそうです。
中舛竹田荘。中舛竹田家は有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物と伝えられています。老朽化が進んだけれど、所有者と地元の協力でファンドを作り、再現されたそうです。
竹田家住宅。
岡家住宅。江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態です。
小塚家住宅。屋号は「山形屋」。
神功皇后(じんぐうこうごう)車の山車庫。明治6年につくられたもの。唐子車と同様毎年10月の第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳き出されるそうです。
文章嶺(ふみのみね)天満宮入口。八棟造の社殿は1810年の建立。
二代目松。
梅屋鶴壽(うめのやかくじゅ)の歌碑。江戸時代末期の狂歌師。
ざっとこんな感じです。
実はこれまで通ってきたどの宿よりも街並みがしっかり残されている印象がありました。本来ならもっとゆっくり巡ってこの街を楽しみたいところ。
有松についてはこちらのURLで紹介があります。
外部リンクもあって有松の街の楽しみ方がいろいろと紹介されていました。