2022年1月から始まった東海道五十三次ウォーキングもいよいよ最終回となりました。
この案内図もついに最終地点に赤丸がつきました(^^)
こちら大津宿本陣跡近くにあった銭湯らしき建物。入口からすでに男性と女性に分かれているようです。
このあたり逢坂という地域なのですが、このように家の壁が隣の家と共通になっている長屋のような建物が並んでいます。右から左に坂が登っているので、屋根も段々になっています。
大津市では他にもこういった長屋が存在しているようです。
こちらは長屋作りに加えて踏切をわたるとすぐに玄関、という珍しい作り。京阪京津線は1912年の開業なので、その後に作られたのかなぁ。。。この踏切を渡らないと外にでれないんですよね。
関蝉丸神社上社。逢坂関の鎮護社として創建されたそうです。
弘法大師堂。境内には寛政6年(1794年)建立の弘法大師常夜燈があるそうです。
逢坂山関跡。途中で年配の女性の方に声をかけられ「この後雨が降ったらここに雨宿りができるところがありますよ」と親切に教えてくれました。お礼を申し上げて、ここでとどまることなく先に向かったらしばらくして豪雨に襲われました^^;;
にわか雨のように一気に降って30分ほどでやみました。
この歩道橋をわたります。このあたりが近江国と山城国との境になるようです。
小関越西追分近辺。車石とは、牛車などが坂を登りやすいように、車輪の幅に石を敷き詰めたんだそうです。
ついに京都市に入りました!
京阪山科駅周辺。
天智天皇陵。藤原鎌足と一緒に乙巳の変を経て大化の改新を進めた後の天智天皇(当時は中大兄皇子)。蘇我一族の支配から脱却し、天皇家に権力を取り戻します。しばらく天皇家が中心となりますが、段々と藤原鎌足の子孫である藤原家に権力が奪われるのは皮肉な展開ですね。
蘇我家が力をもったのは天皇に嫁いで外戚として力をもったこと。これが天智天皇の弟天武天皇、その妻持統天皇、その妹元明天皇、その娘元正天皇のあたりでは藤原家が力をつけ、奈良の大仏で有名な聖武天皇のときにはついに藤原家が后となり、以降藤原家の力が幅をきかせていきます。
このあたりは永井路子の小説「美貌の女帝」で興味深い展開をみることができます。
天智天皇陵近くにある日時計。天智天皇が初めて時計を設置したそうです。
メイン通りをはずれて左側の路地に入り左に見える山の峠超えです。逢坂で終わったと思っていた峠越えがここにもまだあった(笑)最後の峠越えになります。
峠のてっぺんまではひたすら登り。この写真、かなり輝度をあげているんですが、空は真っ暗に近く、今にも雷が、と思ったら、雷がなり始め、雹が降ってきました^^;;
雹降る中峠を超えたら天気が回復。ゴール目指して最後の直線(^^)です。(競馬かい!)
坂本龍馬とお龍の結婚式場跡。元は金蔵寺があったそうです。1864年8月初旬にここで祝言をあげた龍馬とお龍。1864年って6月に池田屋事件、7月に禁門の変などがあって、まあ日本中大騒ぎだった時です。そんな最中に結婚したんですね。さすが龍馬。
龍馬はその3年後に命を落としますが、お龍は1906年まで生きることになります。
そしてついにご〜る!弥次さん、喜多さんにご挨拶させていただきました。
最後は12キロメートル余り。
いや〜、ほんと長かったなぁ(^^)
実際に掛かった日数は13日間。
1日目:日本橋から戸塚
2日目:戸塚から平塚
3日目:平塚から箱根
4日目:箱根から原(吉原本町)
5日目:原(吉原本町)から府中(静岡)
6日目:府中(静岡)から掛川
7日目:掛川から浜松
8日目:浜松から吉田(豊橋)
11日目:四日市から亀山
12日目:亀山から石部
13日目:石部から京都三条
Wikipediaによると全長487キロメートル余り。いろいろ寄り道もしているので、多分500キロメートルになってると思います。
ざっくり1日あたり40キロメートル弱くらいのペース。
歩くペースは信号待ちや休憩などを加味すると1キロメートルあたり13分くらいですね。40キロメートル歩くとなると8時間半以上かかるので、1日の歩く距離としてはちょっとやり過ぎかな(笑)
ま、このあたりは後日振返りをしてみようと思います。
まずは、東海道完歩!