今回のウォーキングは、新居宿から白須賀宿(しらすかしゅく)です。
本陣跡近くにある寄馬跡。この標識にもありますが、東海道の宿場では常に100人の人足と100匹の馬を用意していたようですが、それでも足りないときに助郷制度といって近在の村々から人馬を寄せ集めて対応したようです。ここはその寄せ集められた人馬のたまり場だったということです。
新居の一里塚跡。江戸から69番目になります。
この交差点を右折。目印がなくて困りましたが距離感的に多分ここ(笑)
棒鼻跡が出たので右折ポイントは正解でした。新居宿の西側の入口。ここも枡形になっていたようです。宿の入口は枡形構造がよく見られますね。
橋本という信号のある交差点を右折します。
そしてほどなく「橋本西」というY字路にあたるのでこれを右へ折れます。
このあたりは「橋本村」と言われていたそうですが、前回触れた明応地震で決壊した、浜名湖を海と隔絶していた砂州がまだあったころ、砂州の陸路を通じて橋本宿があったらしい。
途中でみかけたバス停。なんと1日1本!「コーちゃんバス」というコミュニティーが運営しているようで、通学や病院&買い物の便に利用してもらうことを狙ってミニバスを運営しているようです。
本数の是非は問いませんが、地域に目を向けた取り組みでいいなぁ、と思いました。
浜名旧街道松並木跡。旧松並木は松食い虫のために全滅し、昭和62年に植え直されたようです。
ずっと一本道が続くのですが途中にある歌碑。藤原為家、阿佛尼(あぶつに)の歌がきざまれています。
白須賀宿の看板が見えてきました。
一本道。ちょっと古い情緒を感じる建物が多く残っています。
ぽつんと見落としそうなところに高札場跡の標識。
内宮神明神社。潮見観音を安置しているとのこと。宝永4年(1707年)元白須賀宿に宿泊していた岡山藩主池田綱政の夢枕に潮見観音がたち、「この地に大危難あり、早々に立ち去れ」と告げたという。直ちに出立して大津波(宝永大地震による津波)の難から免れたんだとか。この時の地震は推定震度6〜7。白須賀の街は壊滅したそうです。
内藤家長屋門。内藤家は代々内宮神明神社の宮司を勤めたそうです。
この標識を右折。
すると坂。。。え〜〜(涙)ここから潮見坂と呼ばれる坂道を登っていきます。
ちょうど坂を登りきったところに「おんやど白須賀」という休憩所がありました。
潮見坂公園跡にある明治天皇御遺蹟地記念碑。この地域は信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る際、家康が茶亭を設けてもてなしたところだそう。
潮見坂からの太平洋の眺め。
白須賀宿の東側入口の東枡形。
白須賀本陣跡です。大村庄左衛門が勤めていたということ。
新居宿から6.6キロメートル。ガイドでは8キロメートル近くあると表示があったのですが、やや短かったようです。