48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

三好長慶

日本で最初に天下を統一したのは誰でしょう。

 

織田信長とか豊臣秀吉と答える人が多いでしょうね。

 

そもそも「天下」の定義なんですが、私達は「日本全国」のイメージをもっていますが、室町時代では「天皇王権を擁する室町幕府征夷大将軍が管轄した京都とその周辺地域を意味」していたといわれており、今の大阪、京都、兵庫、奈良あたりを押さえた人を天下人としていたようです。

 

そういう意味では室町幕府が一番最初かもしれませんね。

 

室町時代の前の鎌倉幕府は鎌倉に拠点をもっていて、京都周辺は支配、というわけではなかったし、その前の平安時代以前は日本はまだバラバラの時代。

 

では室町幕府の後は・・・

 

京都周辺という意味では織田信長、日本全国という意味では豊臣秀吉が一般的な感覚ですね。

 

ところがここ数年、織田信長より早く天下人になった人物が注目されているようです。

 

三好長慶(みよしながよし)。

(画像:Wikipediaより引用)

 

先日NHKの「知恵泉」という番組で取り上げられていました。

 

三好長慶の父元長は、室町時代の実力者細長晴元につかえていましたが、晴元がその勢いに恐れをなし、一向一揆をしかけたことで殺害されてしまいます。

 

それ以来長慶は晴元に恨みをいだきますが、自分がしかけた一向一揆が今度は自分にむかってきて困った晴元が、長慶を頼るようになります。

 

長慶は一旦服従しますが、十数年後についに晴元をうち、室町幕府の将軍も追い出して、摂津を中心に勢力を拡大することに成功。このとき三好長慶に匹敵する勢力をもっていたのは北条氏くらいだったそうです。

 

そんな三好長慶は、過去の型式にとらわれず、今で言うイノベーターでもあったようです。

 

(1)石垣技術の採用

石垣を城の建築に活用したのですが、当時としては最先端の技術だったそうです。当時は簡易的な設備しかなかった山城に、家臣らが住めるくらいの大掛かりな作りを施し、石垣でその防御態勢を強化したそうです。

 

(2)権威の象徴としての築城

天下統一を世間に知らしめるために織田信長安土城を築城しましたが、三好長慶は同じ狙いで飯盛城を築城しています。

 

(3)キリスト教と貿易

当時入ってきたばかりのキリスト教の布教を認めます。その狙いは、ポルトガルを通じた貿易と言われています。

 

(4)貿易ルートの開拓

築城した飯盛城があった位置は東海道などの陸の交通の要衝だったのですが、水路で貿易の盛んだった堺とも通じる場所でもあったようで、琉球ポルトガル北前船などを通じた貿易を目論んでいたようです。

 

(5)鉄砲の活用

種子島に鉄砲が伝来したのが1543年、1549年には堺に届いていたと言われていますが、長慶は1550年の細川晴元との戦い(中尾城の戦い)で鉄砲を使用しています。

 

これらはいずれも織田信長が先駆的に実施したということで、信長の”破壊者”的なイメージをつくることに寄与していましたが、実はいずれも三好長慶が先んじてやっていたんですね。

 

長慶から12年後に信長が生まれています。信長が桶狭間今川義元を討ったのが1560年、そのころは長慶の絶頂期でした。信長の情報収集力は相当なものでしたから長慶のやり方も信長は知っていたかもしれません。

 

三好長慶は、理世安民をうたって人民の統治に力をいれ、領民からの評価が高かったといいます。

 

晩年は病気になってしまったこと、頼みの弟が死んでしまったこと、跡継ぎと見込んでいた嫡男が早世してしまったことで、衰退が始まり、長慶が46歳という若さで亡くなると、配下にいた松永久秀らの離脱もあって三好家は滅亡してしまいました。

 

 

 

歴史はときの権力者によって編纂されることもあり、都合の悪い記録や書物が処分されてしまうことは少なくないです。

 

長慶の研究が近年いろいろ進んでいる、ということらしいので、もしかしたら信長、秀吉、家康の三傑の前に長慶の名前がでてくるかも。。。(^^)