48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

石川数正

先日NHK BSの番組で「石川数正」が取り上げられていました。

 

石川数正は、徳川家康今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕え、酒井忠次と並んで家康の片腕とも言われていた人物ですが、ある時出奔し秀吉につい臣従した武将です。

 

家康の片腕たる人物が、よりによって最大のライバル秀吉に寝返った、というのは、関ケ原小早川秀秋の裏切りにもまさる、”大”裏切り、と言われていますが、「果たして本当に”裏切り”だったのか」というのはかなり前から問われている、いわゆる七不思議の一つです。

 

番組も、まさに「裏切りだったのか、そうでなかったのか」に焦点をあてた構成になっていました。

 

 

 

 

石川数正について、Wikipediaのちからも借りて^^;;簡単にご紹介。

 

1533年に誕生日した石川数正は、家康より10歳年上になります。

 

先にも書きましたが家康が今川家の人質になっていたときからそばに仕えていて、よき兄貴分的な存在だったそうです。

 

今川義元桶狭間で織田に討たれた時、義元の子氏真が、今川の人質になっていた家康の嫡男信康と駿府に留め置かれいた正室・築山殿を殺害すると息巻いたらしい。

 

石川数正はそこに乗り込んで交渉し、見事に信康と築山殿を取り戻すいう大手柄をあげます。

 

その後は織田家と交渉して清洲同盟成立に貢献。家康を悩ました三河一向一揆(※)では、一揆側の浄土真宗を信仰していた数正は、浄土宗に改宗して家康に従ったといいます。

 

三河一向一揆:家康の三大危機の一つと言われ、後の徳川幕府重臣になる本多正信でさえも寝返った大きな一揆

 

その後徳川家家老にまで出世しますが、後見人として面倒をみていた信康が織田信長の指示で切腹させられてから、徳川家での立場が微妙になります。

 

秀吉との小牧・長久手の戦いでは、主戦論が大勢を占める中で和睦を進言し、ここもまた微妙な空気になったようです。

 

そしてついに1583年11月13日に、家族とともに秀吉の元へ出奔します。

 

この理由は諸説あるのですが、どれも定かでない、とのこと。

 

三河勢の軍事機密を知り尽くしていた数正が寝返ったため、徳川は三河流の軍制を武田流に改めたといいます。

 

 

 

 

出奔の理由については大きく2つに分かれます。

 

本当に裏切った説:信康の切腹、秀吉との和睦方針など、徳川家の中では微妙な立場になっていて、孤立していた、というのが本説の支持者の根拠。

 

実は裏切ってない説:小牧・長久手の戦いの後、体制を立て直しして秀吉は家康征伐の動きを見せ、四国の長宗我部、北陸の上杉、九州の島津といった有力大名をことごとく支配下におきます。勢力的には圧倒的に秀吉有利で、直接対決を防ぐために数正を秀吉のもとに送り戦争回避を目指した、というのが本説支持者の見解。

 

番組では後者に軸をおいて編成されていました。

 

その根拠の一つとして、秀吉と敵対し家康を巻き込んで小牧・長久手の戦いを引き起こしながら、勝手に秀吉を和睦をした織田信雄(※)の書状がみつかったというもの。

 

それによると「数正を秀吉の元におくって戦争を回避するのは良策」というようなことが書かれていたそうです。

 

つまり、数正は出奔ではなく”派遣”だった、と。

 

徳川家康の小説として有名な山岡荘八が書いた「徳川家康」では、まさにそのようなストーリーで石川数正を描いています。

 

織田信雄:信長始め多くの血統がなくなった織田家ですが、この信雄の子孫だけは江戸時代も大名として生き残ります。信雄の四男信良の系統は皇室につながっていて、明治天皇の父で幕末の動乱時を生きた孝明天皇は信良の家系です。いってみれば織田信長の血が天皇家に入っている、ということですね。

 

実際はこの直後の1586年におきた天正地震で、大打撃をうけた秀吉が、自分の妹を家康に嫁がせたり、母親を人質として送り込むなどしたことで、家康が秀吉の臣下になる、ということで2人の激突は回避されます。

 

家康を味方につけた秀吉は勢いにのり、最後の抵抗勢力だった後北条氏を1590年の小田原征伐で滅ぼし天下統一を実現します。

 

家康が関東に移ると、数正は信濃国松本10万石に加増移封されます。そう、国宝松本城は数正によって築城されました。

 

 

 

歴史は、そのときに明らかになっている資料やその資料の解釈によって、大きく変わることが少なくありません。

 

史書は当時の為政者によって都合よく書き換えられていることはよくあることだし、今で言うフェイクだってあってもおかしくありません(^^)

 

それでも研究が進むことで、過去の物語が紐解かれていくことはとても興味深いです。

 

石川数正についても、その評価は180度変わる可能性があるわけで、これからどんな研究成果が出てくるのか楽しみでもあります。

 

個人的には、”戦略的に”秀吉の元に出奔した、という流れのほうがいろいろな物語を感じられていいなぁ、とは思いますが、こればっかりはタイムマシーンででかけて訊いてみないことにはわかりませんね(笑)

 

(画像:Wikipediaより引用。『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)、中央公論社『普及版 戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』(1988)より、という記載あり)