48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

東海道五十三次ウォーキング 庄野宿〜亀山宿(1)

今回は庄野宿から亀山宿に向かう行程です。今回も長い行程になるので2回にわけてお送りします。

 

庄野宿の「郷会所跡」。郷会所とは、助郷(すけごう)の割当を受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所だったそうです。助郷とは、参勤交代などで通る大名行列に人や馬を補充する夫役(ぶやく)のこと。江戸時代後期になると助郷人馬の割当が多くなり、該当村の疲弊が重なることとなり、減免陳情のために集まることが多くなったようです。

 

大名も疲弊してきていただろうから、それが農民たちに負荷がまわされてしまったんでしょうね。

 

一瞬国道にでますが、この先ですぐに分かれます。

 

左の石碑が神戸藩領界石。「従是東神戸領」とあるので、神戸藩の西側の境であることを表しています。

 

右にある石碑が山神碑。春になると里に実をもたらす、と言われています。

 

女人堤防碑。この地域はたびたび水害にあうので、築堤を神戸藩に陳情するも許可されず、その禁をやぶれば打首という厳しい処分が課されると言われてしまいます。そこで菊女という女性が「男がみんな打首になってしまってはたまらん。女がやれば罰も軽くなるんじゃないか」ということでこの村の女性だけで堤防を作ってしまったという。

 

これは藩主にバレてしまい、菊女を始め200余名は捕まり、処刑されることになってしまいました。しかし家老が懸命に諌めたことで藩主は全員を赦すことにし、その決定が早馬で処刑直前に到着した、というスリル満点の話だそうです。

 

菊女始め200余名は、命が助かっただけでなく、その行為を報奨され金一封と絹5匹を贈られたんだとか。

 

行程としては左行く方が距離が短いのですが東海道としては右を行くそうです。

 

中富田の一里塚跡。江戸日本橋から103番目です。

 

安楽川のほとりに鎮座する川俣神社。神戸藩主織田信孝が愛飲したという無常冷水井跡が境内にあるそうです。

 

安楽川を渡る和泉橋。

 

橋を渡るとすぐ右手に曲ります。

 

曲がったらすぐに土手から降りていきます。

途中まで約3キロメートルと短めですが、行程をお送りしました。

 

途中登場した神戸藩は「かんべはん」と読み、「こうべ」ではありません(^^)

 

神戸城2万石の城主だった滝川雄利(たきがわかつとし)は関ケ原の戦いで西軍についたため、後に改易され1601年、尾張国黒田城の一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)が入部し神戸藩が成立しました。

 

1636年、直盛はさらに加増され(評価高かったんですね)伊予国西条藩に転封されたため、一旦幕府直轄地になります。

 

1651年、石川総長(いしからふさなが)が、父親の遺領として近隣に1万石を分与されたことで神戸藩が再興されました。

 

1732年、三代目の石川総茂(いしかわふさしげ)が常陸国下館藩に転封されたため、河内国から本多忠統(ほんだただむね)が入部、神戸藩を継ぎます。

 

この本多忠統、若年寄になったことから築城を認められ神戸城が再興されたようです。幕府は徳川吉宗の時代。若年寄は老中に次ぐ要職なので、かなりのお偉いさんです。

 

以降明治の時代まで本多家が家督を継いでいき、明治2年華族明治17年に子爵となったそうです。神戸藩は廃藩置県によって神戸県となりその後安濃津県を経て三重県編入されました。