連日のNHK番組系ですみません^^;;
昨日の「3ヶ月でマスターする世界史」のあとに放送されている「歴史探偵」からです。
(画像:NHKホームページから引用)
今週扱ったテーマは「桜田門外の変」。
当時の政治の筆頭者である大老が惨殺されるという、幕末に起こった日本史上でも大きな暗殺事件の一つです。
米国からの圧力もあり開国にむけて舵をきった大老井伊直弼率いる幕府に対し、水戸藩を中心とした攘夷派は反発、大雪の降る1860年3月3日桜田門外にて水戸藩士を中心とした18名の刺客によって、井伊直弼が討ち取られた、というのが我々が教科書で習った出来事です。
漫画日本の歴史などでは、かごから引き釣りだされた井伊直弼が最後は首を切られて絶命する、という描き方をされていることが多く、そういう印象を持っている人も多いのではないかと思います。
今回の歴史探偵では最近の研究で新たにでてきた学説について紹介されたのですが、その内容がなかなか興味深いんです。
1)少ない刺客でなぜ暗殺は成功したのか
井伊直弼側には60人の護衛。一方刺客は18人。人数比では圧倒的に不利。しかも、肝心の井伊直弼は居合の達人で、自ら流派を立ち上げるほどの猛将。どうやって刺客は井伊直弼を討ち取ったのだろう。
2)井伊直弼は、切られて殺害されたのではない?
井伊直弼が絶命させた方法は実は全然違っていた。その方法とは?
3)暗殺後実は国内分裂していた恐れがあった?
主君を殺された井伊家は、徳川家康時代に使えた井伊直政以来譜代大名の中ではトップ。一方刺客の水戸家は御三家の一つ。
幕府の中心にい続けた井伊家は主君が殺され黙って入られません。彦根城にいた家臣の一部は水戸家に仇討ちをするために上京するものがでてきたそうで、それこそ、忠臣蔵の幕末編が起こってもおかしくない状況になったそうです。
でも歴史上忠臣蔵幕末編は起きていません。なぜそれは防がれたのか?
4)井伊直弼は3月3日に暗殺されたが、墓石には「閏3月28日」と記されているのはなぜ?
その理由を説明できそうな資料が発見されました。それは・・・
過去に大老を5人も排出した名家の井伊家でしたが、薩摩・長州を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦うことになったときに、新政府軍側につきます。その理由の一つは、14代将軍家茂が亡くなって、次の将軍になったのが、なんと宿敵だった水戸斉昭の息子である一橋慶喜だったことも要因だったかもしれない、という見解も紹介されています。
新しい資料の発見の紹介とともに、このあたりの井伊家の心のゆらぎみたいなところも解説してくれているので、素人の我々にも興味深い内容になっています。
井伊直弼は、安政の大獄を指示し吉田松陰始め多くの志士を弾圧し、のちに倒幕の対象となる、いわゆる”悪役”的な立場で伝えられてきた印象があります。
私がもっている講談社の「学習まんが 日本の歴史」第14巻で登場しますが、描かれた表情もやや悪役的に描かれています。
ですが、ページの欄外に書かれている”豆知識”では、上述の1)と2)について言及されていました。さすが最新の情報を盛り込んだだけのことはあります。
またその豆知識で「彦根藩主時代は領民に慕われ、藩政に熱心な名君という評価だった」ことも記載されていることから、実は大老時代も評価できる活動も多かったのではないか、と推測しています。
今週は歴史系で興味深い番組があって、食事時の視聴が充実していました(^^)