48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

自己覚知

f:id:almater2014:20190503205053j:plain

この写真は北の丸公園に入る手前の東京国立近代美術館工芸館を手前のツツジの花から撮影したもの。

 

今日は天気がよかったので午前中15kmランニングしてきました(^^)

 

写真はその途中で撮影したものです。

 

 

最近友人との会話で「自己覚知」という言葉に出会いました。

 

文字から想像するに「自分を知る」ということかな、と思ったのですが、もしかして何か専門用語の一つかもしれない、と思って調べてみました。

 

Googleでみてみると実はちゃんとした定義はなさそう。。。

 

「自己覚知とは、援助を受ける人に対して偏見などの先入観や思い込みなどを持って援助をしないように自分自身の考え方などをしっかりと考え、理解しておくこととされています。」

ケアトレのページより引用)

 

なんと介護福祉士資格の問題に出題されています。

 

「この言葉自体に明確な定義は無く、簡単に言えば、「自己覚知」→「自分を知ること」→「職業的な自分をコントロールするために、自分の依って立つ価値観について知っておくこと」とでも表現しておけばおおかた間違いではないかと思います。 」

Social Chaneg Agencyのページより引用 )

 

「自己覚知とは、言葉通り「自分を知る」ことです。自分自身との対話によって、自分のことをよく把握することです。

ところが、自分を見つめなおし、客観的に自分を評価することは、想像以上にむずかしいことだといわれています。自己覚知は、自分自身の殻を破る作業となることもあり、勇気も必要であることは認識しておきましょう。」

Dearyのページより引用)

 

ちなみに私がもっている電子辞書に入っているデジタル大辞林では登録されていませんでした。

 

コトバンクでも検索にかからず・・・

 

 

 

「自分を知ること」ではあるんだが、その「自分の姿を素直に受け止めること」ということだろうか。

 

たとえば「妬みやすい」一面があるとしよう。

 

普段は「妬む」ことは良くない、とか、見苦しい、とかいう理性で自分を抑えて普段の言動にはなかなか現れてこないので、自分でさえも「妬みやすい」という面はなかった、あるいは改善されたと思うかもしれません。

 

自分が「妬みやすい」タイプであることを自覚した上で、それを表に出さないように封じる方法を身につけているのであれば、すでにこの「自己覚知」はできているんでしょうね。

 

問題は「妬みやすい」タイプであるにもかかわらず、「いやそうじゃない」と自分で否定している場合。

 

同僚が上司から普段高く評価されていて、それを妬んでいる自分がいるが、自分は妬んでいるとは思っていない。

 

でも心の底では妬んでいるのでどうも面白くないから、その同僚を避けたり、仲間はずれにするような行動をとることで、自分の妬みを癒そうとする。

 

同僚を避けたり、仲間はずれにする行動をとったときの大義名分は例えば、その同僚が上司にごまをすっているからだ、と吹聴して同僚を非難する。

 

他の人が「そうかなぁ」とある時に言ってくれば、「私はそれを見たことがある」と自分の吹聴した嘘を正当化するために新たな嘘をつく。

 

それが積み重なると、嘘が真しやかに扱われていることになる。

 

そして自分は「上司にごますっている同僚をこらしめてやった」という正義感を満たすことになる。

 

こんなときに自己覚知をしたらどうなるだろう。

 

同僚が上司にごますっていた、って実際そうだったっけ?と自問する。

 

よ〜く考えると当然ながらそんな事実はなかったことを思い出す。

 

するとなんで自分はそんなことを吹聴したんだろう、と考える。

 

あまりにも前の話だったりすると時系列の整理も含めてかなり頭をつかうだろう。

 

すると、いつも上司に評価されている同僚をみるといい気持ちがしていなかった自分にふと気がつく。

 

「あ、私は同僚を妬んでいたんだ」と。

 

なぜだ?他にも似たようなことはなかったか?

 

さらに記憶をたどっていくといくつか例が思い出される。

 

「一度だけでなく、何度も同じような気持ちに襲われていた」

 

どういうことだ?

 

そこで自分が妬みやすい面をもっていたことに気づく。

 

いや気づくというより、目の前に突きつけられるような状況だろう。

 

自分が否定して封印していたはずのものがなぜか自分の目の前に現れている。

 

最後には自分が妬みやすい、ということを観念して認める。

 

これはなかなかの勇気がいるし覚悟を必要とする作業です。

 

冒頭のDearyのページに記載されていたことがまさにそうですね。

 

 

 

自己覚知とは、単に自分を知るということではなく、時によってつらい体験を通じて自覚を強いられることもあり、また受け入れる覚悟を必要とする行為なんですね。

 

自己覚知という言葉を教えてくれた友人はこの作業を「鎧を取る」という表現をしていました。

 

まさにその通りかもしれません。

 

 

 

私の場合過信する恐れがあるので、卑下するくらいのスタンスでちょうどいい気がしています。

 

会社に入社して以来比較的高く評価されてきてずっと来ていましたが、ある時に自分の力が及ばずにプロジェクトの目標を達成できなかったことがありました。

 

このときにいかに自分が実力以上に背伸びしていたのかを自覚させられました。

 

私にとって自己覚知だったのかもしれません。

 

やれば結果がでる、そして評価があがる、その繰返しで自分を実力以上に過信していました。

 

背伸びをすることはむしろいいことだ、さえ思っていたくらいです。

 

その結果私のプロジェクトによって多くの人に迷惑をかけたのです。

 

自分をもっと知っていれば、迷惑の度合いはもっと低くて済んだと思っています。

 

 

 

こんな気分はこれまでの人生で数えるくらいしか経験していないですが、どれもしんどいことでした。

 

今回言葉として「自己覚知」という認識を初めて持ちましたが、すでに近いことは実体験があったかも、と改めて認識しました。

 

なかなか難しいね〜(^^)