48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

旧交をあたためるパート2

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前職で仙台で勤務していたときの同僚が東京にくる、ということで一献交わしました。

 

偶然にも今週2回目の仙台時代の旧交。

 

彼はアメリカの工場に5年赴任して、私が仙台に着任した時に帰任してきたちょっと年下の同僚。

 

その工場にはその3年後に私が赴任することになります。

 

彼は多くの仲間が認める人たらし(笑)

 

私が退職する時には組織上は私の部下でした。

 

なのでその後の職場の状況が気になり、矢継ぎ早にききまくってしまった。。

 

当時から事業は厳しい状況でしたが、思った以上に健闘しているものもあれば、思った以上下降しているものも。。。

 

懐かしい名前もたくさんでてきて、退職以来6年間の溝が少しうまったような気がします。

 

 

 

彼はエピソードには事欠かないのですが(^^)その中でも特筆なのが英語。

 

先にも書いたように、彼は5年間アメリカに赴任していました。

 

日本との電話会議(通称テレコン)でもアメリカ現地のエンジニアたちの言葉を代弁して、「彼らはこういうことを求めているんですよ」と物怖じせずはっきりと言ってくる人でした。

 

しかもアメリカといってディープサウスのアラバマ州で強い南部訛りの英語は、電話越しに聞き取りにくく、彼のサポートはとても助かったものです。

 

ところが・・・彼のTOEICの成績は当時400点なかったそうです!

 

あれだけ現地のエンジニアと意思疎通をして、毎日英語のメールや会話に対応していたにもかかわらず(笑)

 

確かに彼の英語をよく聞くと文章というより単語を並べているようなところもありました。

 

でも、確実に現地と意思疎通がとれていたのです。

 

すなわち「コミュニケーション」がとれていたのです。

 

TOEICの点数にちょっとコンプレックスをもっていた私は驚愕(^^)

 

 

 

当時はまだ管理職の採用条件としてTOEICの点数が規定されておらず、規定される直前に彼は無事昇格(笑)

 

彼は現地でエンジニアと交わした約束を一つ一つ果たしていくことで、彼らから信頼を勝ち取っていました。

 

だから彼が何をいいたいのか、と彼らから耳を傾けてくれていました。

 

コミュニケーションの真髄(^^)

 

 

 

私は今入居者との面談にて、海外の人とも対面または電話会議で応対します。

 

以前は英語で面談するなんて、こわくてこわくてできませんでした。

 

自分の伝えたいことをはっきりして、わからないことはわからない、とこれもはっきり言うことで、じつはなんとかなるなぁ、と実感。

 

今では気持ちで臆することはなくなりました(^^)

 

彼のスタンスがベンチマークになっていた気がします(^^)

 

 

 

仙台に帰るまでのつかの間の飲み会。

 

なんだか仙台が恋しくなってきたので、今年夏にでも行ってこようかなぁと模索中。。。