(画像:法隆寺ホーページより引用)
18件の建物の、20件の仏像の国宝が集まっている貴重なお寺です。
先日NHKの歴史ヒストリアで、この法隆寺の波乱万丈な歩みが放送されていました。
3月17日から国立博物館で特別展として「法隆寺金堂壁画と百済観音」が展示されることをうけて、のタイミングだったのかもしれません(^^)
この番組では法隆寺にゆかりのある3人の人物に焦点をあてて法隆寺を紹介するという、ちょっと印象的な内容だったので、ここでもご紹介したいと思います。
聖徳太子と光明皇后
英歴605年に飛鳥から斑鳩に住まいを移し、そこに法隆寺を建立したといいいます。
当時の聖徳太子はスーパースターで、仏教を日本に広めることで国を治めようとしたことはご存じの方も多いと思います。
仏教推進はであった豪族蘇我氏と手を組み、神道を司っていた物部氏をやぶって、権力を手中にし仏教思想に基づいた統治を進めます。
聖徳太子は中国から輸入された仏教の教典の解説書をいくつか作成しており、これも彼の功績の一つといわれているようです。
しかし聖徳太子の死後、権力争いが再び勃発し聖徳太子の一族も滅亡します。
そして法隆寺も670年に火災にあって消失します。
これがまず最初の苦難。
しかし朝廷の後押しもありこの後再建されることになります。
(現存する西院伽藍の建物は一度も火災消失してないという学説と、670年の火災で一度消失しているという学説と、学会では論争になっているそうです。)
今に残る国宝のいくつかは再建の後に収められるのですが、中でも重要な人物の1人が光明皇后だとのこと。
光明皇后は、藤原家の始祖といわれている藤原不比等の娘で、第45代天皇の聖武天皇の后で701年生まれ。
当時は女性は成仏できないといわれていたのですが、聖徳太子がまとめた法華義疏(ほけぎしょ)で「老若男女みな成仏できる」とうたわれていることに感激し、以降聖徳太子をあがめるようになったそうです。
このときに一族に伝わる秘宝を寄贈し、聖徳太子の住まい後に夢殿を建立、救世観音(くぜかんのん)像をおさめます。
火災という大きな衝撃を乗り越え、今に残る国宝とともに再建されました。
岡倉天心
明治に入り、日本、日本人のよさを西洋各国に伝えようと同時期に英語で書かれて出版された三部作「武士道(新渡戸稲造著)」「代表的日本人(内村鑑三著)」「茶の本(岡倉天心著)」の1つです。
なぜに岡倉天心、と思ったのですが、単に私の勉強不足だったからかもしれません(^^)
彼は美術界の風雲児と呼ばれていた人物で、美術に造詣がかなり深く、官僚でもあったらしい。
時は明治。
法隆寺の苦難は明治に入って襲ってきます。
明治4年の上知令が交付されたことにより、領地から年貢が入らなくなり資金繰りに困窮します。
所有していた宝物を皇室へ寄贈することで代金を得て運営に充てていたそうです。
そして、明治政府は天皇の権威を高めるために「神仏分離政策」を遂行します。
文明開化の音がするよろしく、「新しいものはいいが、古いものは不要」みたいな思想も刷り込まれていたような時代でした。
そのため、古い仏教のものは壊してしまえと多くの仏像などが破壊されたそうです。
イスラム原理主義の人たちが中東で仏像破壊をしていましたが、同じことが日本でも約150年くらい前まで行われていたんです。
東京大学で哲学を教えていたフェノロサという教授の通訳をサポートしていた岡倉天心は、フェノロサの影響をうけて日本美術、特に法隆寺に関心をもつようになります。
フェノロサの調査に随行し法隆寺の救世観音像をみたとき「一生ノ最快事ナリ」といったそうです。
明治19年、フェノロサと西欧諸国を視察した天心は、西欧諸国が古典美術の教育に熱心であることに感銘をうけます。
国のアイデンティティーを養うためには古きを知る必要がある、という考え方です。
岡倉天心は帰国後日本の美術品の保護のために活動を起こします。
そして明治34年に古社寺保存法を制定するにこぎつけたのです。
この法律によって大事な美術品を国宝といて保存することができるようになったのです。
また指定されたものは修復に国から援助がもらえます。
法隆寺にある重要な美術品や建物はこの法律によって守られることになり、明治の苦境を乗り切ることができました。
岡倉天心はその後大正2年に法隆寺金堂壁画保存の建議案を作成し、その歳に病で亡くなります。50歳でした。
宮大工〜西岡常一
最後の登場人物は三代にわたって宮大工の棟梁をつとめた西岡常一です。
祖父、父、自分と宮大工の棟梁を引き継いできました。
法隆寺では数百年に一度解体してメンテナンスをしくみ立て直すという大きな事業をいます。
それが西岡常一の父の代のときの昭和9年、「昭和の大修理」として行われます。
常一もこの時に飛鳥の技法を目にして感動し大工の仕事にのめり込んでいったそうです。
そこで再び法隆寺の苦難は、昭和24年に火災で国宝の金堂が焼け落ち、中の壁画も崩れ落ちてしまったときです。
修復をすることになりますが、その時は常一が棟梁になっていました。
一番大変だったのは柱。
柱の表面処理をするカンナが現存していなかったのです。
当時のカンナでは飛鳥時代のつやつやな表面仕上にならなかったので、文献を調査して特注で作らせたそうです。
このカンナは「ヤリガンナ」といいます。
ネットでしらべるとその写真も見ることができます。
しかし常一がいくら練習してもうまくならない。
そこでふとひらめいて、法隆寺で使われていた古釘を使ってヤリガンナをいちから作り直してもらったそうです。
すると目指していた表面仕上ができたんだとか。
現代で使われている電気カンナと比べると、表面があきらかにつるつるになっていて、このため水が入りにくいようです。
なので、カビやひび割れといった問題が起きにくい柱になったのではないかと、常一の後を継いだ棟梁の方がおっしゃっていました。
ヤリガンナの登場で金堂の再建は進み、昭和29年に再建を果たします。
飛鳥の時代は、一つ一つの木がもっている反りや曲がりといった”個性”を上手に組み合わせて丈夫な建物を作っていた、ということです。
そんな飛鳥の技法を駆使した法隆寺。
宮大工棟梁だった西岡常一は「法隆寺が私の先生だった」と言葉を残していたそうです。
その後を継いだ現棟梁は「また300年か400年か経って解体修理が行われた時に、”これは平成の技術だな”と読み取ってくれる人がきっといるんだと思う。その時に笑われないことが私達の役割なんです」といっていたことに、すごいプロフェッショナルを感じました。
法隆寺にまつわる学説は古い時代ということもあり、諸説あるという事柄も少なくないようです。
(藤原不比等だって、藤原鎌足の子供と言われているが、実は鎌足とクーデターを起こした中大兄皇子こと天智天皇の子供だという説だってあるくらいです)
それでも、いくつかの困難にあって重要な人物が現れ、守られていくという流れに、ちょっと感動します。
建立以来1400年経過しているんですね。
すごい宝物だと思います。
私は小さい頃に観たかもしれないのですが、記憶がないんですね(^^)
今度行ってみたいところリストの1つに入れてみようと思います。