先日両親といっしょにニュースを観ていたときにこんな報道がありました。
「神社の賽銭を盗んだ容疑で〇〇が逮捕されました」
テレビでは憤慨した神社の方のインタビューや、収録された防犯カメラの映像などが流れて、神社のお賽銭をとるなんて、困った人だなぁ、くらいの感覚で観ていました。
でも一緒に観ていた両親はちょっと違う感覚だったようです。
「なんで捕まえようとするんだろう」
ん?人のものを盗んだんなら捕まるのは当たり前じゃない?と頭の中で聞き返しているのですが、母親が言葉を続けます。
「そもそも、神社やお寺は困った人を助けるところでしょう。なんでそういう人たちを救わないのかな?しかも逮捕しちゃうんなんて」
お・・・なるほど・・・
父が続けます。
「お賽銭のお金は自分たちのもの、と思っているから盗まれたと思ってるんだろうな」
あれ?お賽銭はその神社が使っていいんだよね。
「お金は神社が困った人を救うために使われるものであって、そこにいる人達を肥やすためのものじゃないはずだよな」
ほ〜・・・
「自分たちが好きなように使っていいお金と勘違いしてるんじゃないかな」
現代社会では神社もお寺も社会経済の中で存続していくためには、経済的な支えが必要ではあるけど、この両親の視線はなにか、新鮮というか、ちょっと自分もハリセンで頭叩かれたような気持ちになりました。
有名な劇「レ・ミゼラブル」では、主人公ジャン・ヴァルジャンが教会に世話になりながら、そこの銀の食器を盗んで失踪してしまうシーンがあります。
しかし神父は許すんですよね。
なんかそのシーンが浮かんできました。
宗教は人類の一大発明の一つだと思っています。
宗教に寄って人は精神を安定に保つことができ、社会を営むことができるようになったので、生物界として頂点に立つことができた要因の一つでもあるんじゃないか、と。
宗教論を語るつもりは毛頭なく(^^) ただ理想を言えば、人々の心を支える存在であってほしい、と願います。
今回の賽銭泥棒にあった神社の方々も、なんども防衛策を講じながら止まらない盗難に業を煮やして被害届を出したと思われます。
それはそれで現代社会において、やむを得ないだろうし非難されることでもないかもしれません。
一方で両親のような視線も捨てられないな、と思いました。
今困っている人たちを助けるために活動する人たち、といえば、こういう宗教でなく、民間のNPOだったり、ボランティアだったりがイメージされます。
たまたまメディアなどで露出することが多いからかもしれないので、その多寡については言及できません。
宗教対立で人が殺し合うことが平気で行われる現代だからこそ、人を救う宗教活動として、困った人に手を差し伸べられるような社会があると、それは素敵な世界だな、と感じます。
いい年をした私ですが、未だに両親から気付かされることがあります(^^)