さて、何気なく続いている東海道五十三次ウォーキングですが、今回は戸塚宿から藤沢宿です。
経路はこんな感じで、ほぼ直線ですね。
先日の吉田大橋から出発します。
吉田大橋からちょっと歩くともう戸塚駅です。
ちょうどお昼時だったのでここでランチ。
戸塚駅に以前いった担々麺屋があったはずなのでそこへ行こうとGoogleで検索。
ところがまさかの定休日!!!!
もう口の中が担々麺を受け入れる体制になっていたので、後に引けず、他のお店を検索。
そして入ったところがこちら。
「エンマラジャ」というお店らしいです。
初めて入る店は看板メニューから、の原則で閻魔ラーメンのご飯付き!
見た目ほどは辛くなく、おいしくいただきました!
さあ、お腹を満たしていざ再出発!
戸塚駅をでてからの東海道にはたくさんの陣跡の看板がありました。
見付跡なので、戸塚宿の京都側の入口だったところのようです。
このあたりからまた坂を登っていきます。
このあたりは「大坂」と言われていたそうですね。
さっと通り過ぎてしまいそうですが、庚申塔群(こうしんとうぐん)です。
青面金剛像などが祀られているそうです。
横浜新道と合流する地点。
ここもまだ坂を登る・・・
バス停の脇にちょこっと存在している碑。
「お軽勘平戸塚山中道行の場碑」というらしく、歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」で逃避行をしていた勘平がお軽をいたわったと言われているところらしいです。
珍しい「立場跡」。
ここの説明にあるように、宿と宿に距離があるときの休憩所だったようですね。
今のご時世ならドライブイン、みたいなところでしょうか、車は当時ないけどね(^^)
諏訪神社。
江戸時代をたどる旧東海道のウォーキングですが、この神社は明治40年に移転してきた神社らしいです。
建御名方命(タケミナカタノカミ)を祀っているそうで、古事記において高天原から地上の支配権を譲り受けるため降り立ち、建御雷之男神(タケミカズチノオノカミ)と力比べをして負け、国を譲り渡すことに合意した、と伝えられています。
余談ですが、諏訪神社は長野諏訪市に総本社があり、自然を拝むところから縄文時代に登場し、古事記は大陸からきた農耕民族(弥生人)に先住民であった縄文人が支配されていく様子をえがいたものではないか、という学説を聞いたことがあります。
建御名方命が縄文人で、建御雷之男神が弥生人ではないか、という私の想像。
ちなみに総本山である長野の諏訪神社は、縄文の様式と弥生の様式の両方をもっているらしいです。
史実を神話という形で語り継ごうとした流れかもしれませんね。
話がずれましたが、私は境内にあったクスノキの大木があまりにも立派で見惚れてしまったので、ここでちょっと休憩したんです(^^)
こういう案内図があると歩くのが楽しくなります。
今どのあたりにいるのか、これからどんな史跡があるのかなんていろいろ思いを巡らせながら歩くのは楽しいものです。
前回も触れましたが、横浜市は史跡の案内がとても多くていいですね。
特に戸塚区は充実している気がします。
お〜、ついに藤沢市に入りました(^^)
母の実家があることから幼少の頃から親近感を感じる街です。
藤沢市に入ってもこのような案内がありました。
遊行寺があるところの坂道ですね。
このあたりに一里塚があったようです。
坂の名前にもなっている遊行寺です。
時宗総本山だそうで、樹齢700年の大銀杏があるそうな。
浄土宗は阿弥陀仏への信仰が中心となっていて、念仏を唱えれば唱えるほど極楽往生に近くなるというものですが、時宗は阿弥陀仏への信仰は問わずに、ただ念仏をとなえればいい、というものだったらしいです。(Wikipediaから要約)
私も普段信仰していないけど、困った時に「神様仏様」と手を合わせるわけですから、同じムジナかも(笑)
そして遊行寺坂をすぎて境川にきたところで、藤沢宿の広重の描写ポイントと思われるところに到着しました。
広重の画では、奥に遊行寺が描かれていることから、向いている方向が逆でした^^;;
今回のルートはざっくり9kmの行程でした。