48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

東海道五十三次ウォーキング 原宿〜吉原宿

前回到着した原の宿から吉原の宿に向かいます。

 

ざっくり4分の1まで来た感じですね。

 

このあたりは海岸線にほぼ平行に道路も電車も走っているので、このように一直線。

 

電車もこのように一直線(^^)

 

そしてあまり史跡がないので、このあたりは結構走ることが多かったです。

 

途中一里塚跡があったらしいのですが気づかずに素通りしてしまいました。

 

富士市に入ります。

 

間宿本陣跡。茶屋が軒を連ねていたらしいです。

 

増田平四郎の像。奥の車の奥に見える像がそれです。

 

この地元の人で、天保の大飢饉や水害から村を救済するために干拓事業を大掛かりに行った人物とのこと。

 

一里塚あとをまたもや見逃し、ひたすら1.5kmほど走って到着したのが、こちら、高橋勇吉顕彰碑。

 

天保の時代に私財を投入して排水用の掘割を完成させて水田を水害から守ったという人物。

 

河合橋にさしかかりました。吉原駅の北側になります。

 

左富士神社。

 

依田橋の一里塚。左富士神社の中にあります。

 

さて、左富士とありますが、何が左富士なのか。

 

ここが名勝左富士と言われているところ。本当はこの正面くらいに富士山が見えるんだそうです。この日はあいにくの曇り空で富士山をおがめませんでした。

 

江戸から西へ向かうと基本的に富士山は「右側」に見えるものなのですが、ここでは左側に見えるため、左富士と言われているそうです。

 

これは別の日に歩いたときのもので、道路右側に富士山が見えていて、これがいつもの風景です。

 

こちら先程の名勝左富士のところからみた富士山。道路の進行方向に向かって左側に富士山が見えます。通常西に向かう進路ですが、ここは内陸側に入るため北進することになり、少し東側にむくことからこのような位置関係になっているようですね。

 

もうすぐで吉原の宿になるのですが、元々はもっと海側に位置していたのですが、江戸時代2回ほど大津波(高潮と言われている)にあって、内陸側に移動して今の吉原本町駅周辺あたりになったんだとか。

 

最初は現在の富士市今井のあたりに吉原の宿があり、元吉原といわれています。

 

津波(大地震による津波の記録がないことから高潮ではないかと言われています)の被害をうけて名勝左富士あたりに吉原宿は移転をしました。

 

ここは中吉原といわれています。

 

その後記録では延宝8年(1680年)に高潮の被害があった記録があるそうで、現在の吉原本町のあたりまで再移転をしたようですね。

(文献:https://www.city.fuji.shizuoka.jp/img14/fmervo000000rbkh-att/fmervo000000rbsj.pdf

 

そのため、東海道が一時的に西ではなく北へむかうことになります。

 

静岡県内はこの形の標識で統一されているようです。

 

平家越碑。1180年源平の富士川の戦のときに平家が陣取ったところ。

 

そして岳南電車が通る吉原本町駅に到着。

 

ここが吉原宿となります。

 

原宿から吉原宿まで11キロメートル強。なかなかの距離でしたが、残念ながらあまり史跡が多くなかったので、移動がメインになってしまった感じです^^;;

 

この日は元箱根から一気にここまで45キロメートル走って歩いてきたので、さすがにつぎの蒲原宿までさらに12キロメートルはきつくなり断念。

 

東西に長い現在の静岡県のだいたい東側3分の1来ました。

 

静岡県を抜けるまであと2〜3日はかかりそうです^^;;