薩埵峠を越えた興津宿から江尻宿へ向かいます。
この近辺の宿ではこのような「〇〇宿」案内板というものが掲示されています。街道沿いに建物が細長く建てられていたことがわかります。
実際に街道沿いの建物は奥行きが長い家が多かったです。
東本陣跡。
武田信玄の家臣だった望月氏が勤め、明治になってから旅館一碧楼水口屋として繁盛したらしいです。
そしてすぐに西本陣跡。
興津宿の歴史についての掲示です。本来ならじっくりみたいところですが、先を急ぐので写真だけとりました(^^)
掲示板からの情報を一部抜粋します。
興津の歴史
古代から交通の要衝として栄え、680年頃には関が設けられ、鎌倉時代には興津氏によって支配されたようです。江戸時代になると薩埵峠、川越といった難所を控えていたことや、身延山への街道(今のJRA身延線につながり、今の韮崎を経由して日本海へ抜ける)も分岐してことから宿場町として反映しました。
明治になると元老西園寺公望が別荘「坐漁荘」をたてて住み、のちの国の重鎮が首相交代期に訪れたことから、明治の裏舞台ともいわれたそうです。
興津宿の規模
総人数は1700人弱、34件の本陣、旅籠があったそうです。
680年頃に設けられたという清見関の跡。清見寺(せいけんじ)」の近くにあります。
清見寺は奈良時代に創建されたとされ、足利尊氏や徳川家康といった時の権力者によって手厚く保護されていたそうです。それだけ東海道の要衝だったということです。
高山樗牛假寓之處。「タカヤマチョギュウカグウノショ」と読むようです(読めないよ〜〜)。高山樗牛は文明評論家で結核を患ったときにここで静養したらしい。
高山樗牛の仮の住まい、という意味のようです。
西園寺公望の別荘「坐漁荘」。「次の首相はこの人を考えています」みたいに、国の重鎮がお伺いをたてにきていたそうです。
地図ではここを左折にみえたんだけど、実は違っていてこのまま直進でした。
横砂踏切。東海道線を横切ります。
ここもはるか直線(^^)
国道1号線に合流します。
辻町の信号で国道(左側)から離れて旧道(右側)へ入ります。
途中で一里塚や木戸跡、高札場跡があったらしいのですが見つけることができず、やむなく江尻東の交差点まできてしまいました。
進行方向左手を向いた写真ですが、この先に清水駅があります。
江尻宿本陣跡まできました。
興津宿からは5kmほどと短い距離でした。