ウォーキングは浜松宿を出て舞阪宿へ向かいます。
こちらは梅屋本陣跡。今は看板のみ。
子育て地蔵尊。子に恵まれなかった夫婦が願掛けをしたところ、子を授かったという言い伝えがあるそうです。江戸時代に作られた地蔵が祀られています。
八丁畷と言われる地域の東端を表す標識。畷は田んぼの畦道で、丁は町と同じで、1町は約109メートルなので、八丁とは約872メートルの長さを意味します。
若林の一里塚跡。日本橋から66番目。
二つ御堂。武蔵坊弁慶、源義経で有名な奥州平泉を支配していた藤原秀衡とその愛妾によって1125年頃に建立されたそうです。京に出向いていた秀衡が重病になったと聞いた愛妾が京へ上る途中この地で秀衡死亡の報をきいて菩提を弔うために北の御堂を建てました。しかしこれは誤報で秀衡は回復して奥州へ帰る時その話をきいて、愛妾への感謝の気持ちを込めて南の御堂を建てたのだとか。
1705年に高塚村が旗本大沢家の堀江領となったということ。
小野田五郎兵衛という長者が旅人に麦飯を振る舞ったと言われています。
高塚西バス停付近の二股。これは幹線からはずれて右の「舞阪駅」方面へ進みます。
篠原の一里塚跡。日本橋から67番目。
高札場跡。
愛宕神社。坪井村の氏神として勧請されたのが1592年と古く、1601年に家康が鷹狩の折に参拝したと言われています。
高札場跡。バス停の脇にあるこのアンバランスさが面白い(^^)
松並木入口。1712年に1,420本の松が植樹され、そのうちの約330本が残っているそうです。かなり長い松並木です。
その松並木についての説明の石碑。
舞坂橋跡。昔この松並木を横切るように川が流れていたそうです。
浪小僧像。地引網にひっかかった浪小僧を助けると、お礼に時化(しけ)を太鼓で知らせてくれるようになったと言われています。
X字型の交差点でこの二股は左側に進路をとります。
いよいよ舞坂宿に入ってきました。こちら東見附跡。この近辺に舞坂の一里塚跡があったはずなんですが、気づかず・・・
そして舞坂宿本陣跡に到着しました。
浜松宿から12キロメートルほどの距離。なかなか長かった(^^)