48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

東海道五十三次ウォーキング 丸子宿〜岡部宿

今回は丸子宿から岡部宿に向かいます。

 

 

丸子宿にある広重の絵。初版では「丸子」となっている地名の表記。後の版では「鞠子」と改められています。茶屋でとろろ汁を食べている弥次さん喜多さんが描かれています。

 

これが広重の絵にかかれていた「自然薯のとろろ汁」の老舗「丁子屋」。この日は朝が早かったのでまだ開店時間前で、やむなく素通り。創業1596年だそうです。

 

丸子宿は東海道53の宿の中で一番小さい宿だったようですね。

 

細川幽斎歌碑。秀吉の小田原攻めの先人として丸子川を勇躍渡る様を詠ったもの。

 

上方見附跡。高札場があったところです。

 

丸子橋を渡って静かな住宅街を歩きます。

 

一瞬国道にでるのですが、左手におれて再び一般道へ。

 

そして再び国道1号線にでてきて、この歩道橋を渡って反対側に移ります。

 

このあたりは宇津ノ谷峠の道の駅があるところです。天気もよかったので中でソフトクリームでも食べたいなと思ったのですが、この日は距離を歩くので我慢して先を急ぎました(^^)

 

道の駅を過ぎて丸子川の村中橋あたりに「ようこそ宇津ノ谷へ」の看板がありこの分岐点を左側に行きます。

 

宇津ノ谷の標識です。

 

村中橋を渡ると古い家が並んでいるのが目に入ってきます。

 

ここの家々も「ことぶき」とか「魚屋」とか江戸時代にやっていた商売と思われる看板が下がっていて、東海道の面影を残しています。

 

この写真階段手前を右に折れます。

 

この記念碑のところから山道に入ります。

 

東海道でよく見かける馬頭観音

 

「峠」というだけあって結構な山道を入ります^^;;

 

雁山の墓。山口素堂に徘徊を学んで甲府駿河で活躍した雁山は、1727年に旅に出て音信不通となったため、駿河文人たちが旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと言われています。

 

しかし実際は雁山は行きていて1767年甲府で没したとのこと。

 

この奥が地蔵堂跡であることを示す看板。

 

その地蔵堂についての解説がかかれています。

 

こんな雰囲気です。

 

そして峠の標識。いわゆる峠のてっぺんにきたわけでやっと登りが終わります(^^)

 

髭題目碑(ひげだいもくひ)。碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれています。

 

日蓮宗の信仰がさかんな県東部ではよく見かけるこの碑も中部のこの地域では珍しいらしいです。

 

蘿経記碑跡(らけいきひあと)。1830年儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記が蔦の細道の消滅をおそれて末永く残すために建立した石碑らしいです。「蘿」は「つた」を、「経」は「小路」を意味するんだとか。

 

山道終了(^^)

 

坂下地蔵堂。微動出しにしない牛を子供に化身した地蔵が鼻をとって動かしたという鼻取地蔵を安置しているそうです。

 

つたの細道標石。この左上に国道1号線が走っています。

 

その国道1号線沿いに再び登場。この先の歩道橋を渡って反対側に移ります。

 

旧道をずっとあるくと十石坂観音堂(じっこくざかかんのうどう)にでます。堂内に2基の厨子が安置されているそうです。

 

枡形跡の標石。東木戸跡で岡部宿が近くなってきたことがわかります。真っ直ぐの道をわざと一旦90度曲げてまた90度戻すという道は、それぞれの宿でもよく見られます。

 

この前は由比宿の入口がそうでした。

 

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そして岡部宿本陣跡に到着です。

 

今は立派な本陣門などがこのように復元されていてちょっとした観光地になっています。

 

 

途中峠越えがあり、なかなかタフなコースでした。地図上の表示は9キロメートルとなっていますが、行程が重複しているところもあり、実際は8キロメートル前後くらいでした。

 

東海道の峠は箱根だけでなく、いろんなところにあるんですね。