48歳からの挑戦

47歳で脱サラ、48歳で起業したおじさんの奮闘ぶりをご紹介しています

読書会〜ブッダという男―初期仏典を読みとく

 

今回の課題図書はこちら。「ブッダという男ー初期仏典を読みとく」です。

 

推定ですが、世界に広がる宗教の人口ランキングはWikipediaによると

1位 キリスト教 約24億人

2位 イスラム教 約19億人

3位 無宗教 約12億人

4位 ヒンズー教 約12億人

5位 仏教 約5億人

だそうです。

(出典:List of religious populations - Wikipedia

 

意外と人数が少ないとは言え、世界で5番目に多い信者がいるわけで、その始祖であるブッダという人物像は、多くの人に影響を与えます。

 

日本では十三宗五十六派という言葉があり、宗教団体法設立前に公認された仏教宗派が56あったことに由来しています。現在の宗教団体法の元では、28宗派が公認されています。

 

その内訳はこちらに掲載されています。

www.echizenya.co.jp

 

ただ、公認された宗派からさらにいろいろと分派して多くの宗派が実質存在しています。(たとえば創価学会日蓮正宗の枠組みに入っています)

 

その詳しい内訳はこちらで見ることができます。

www.e-sougi.jp

 

我々の生活の中にも多くの仏教に起因する価値観や生活習慣があります。

 

そんな仏教を作ったブッダという人の研究はこれまで多くの人が携わってきたようです。

 

ブッダは本当に差別を否定し万人の平等を唱えた平和主義者だったのか?」

 

こんな衝撃的な投げかけがカバーページに掲載されています。

 

そして著者は様々な視点と考察から、「これらのブッダ像は、”現代人の価値観に合わせるように作られたものである”」とバッサリ切り捨てています。

 

著者清水氏のX(旧ツイッター)でもこのような掲載が見られます。

ロヒンギャ虐殺に加担した仏教テロリストもいるが、彼らは仏典解釈(殺業を犯しても善業で打ち消せる)は歴史から見ればむしろ正統的なものだ」

 

現在の価値観と、2500年前のインドの価値観とでは全く違うわけで、当時当たり前だったことが反映されていてもおかしくはない、という指摘は確かにもっとも。

 

これまで当たり前と感じていたことに疑問をなげかけるきっかけを与えてくれました。確かにこれまでのブッダ像って、なんとなく「すごい人」くらいしかイメージがなかった、いや言い換えれば大きな関心がなく、なんとなく空気にのっかっていた、といったほうが正しいかもしれません。

 

仏教は殺生を認めていない、という認識ですが、戦争は認めています。

 

仏教は差別をしない、という認識ですが、仏教徒以外は不可触賤民として殺しても構わない、としています。

 

仏教は平等を尊ぶ、という認識ですが、女性蔑視は当たり前でした。

 

イスラム原理主義によるテロのニュースをTVなどで目にすることがありますが、仏教原理主義にたつと、実は同じようなことが起こってもおかしくないのかもしれません。

 

さきほどリンクした清水氏のXの投稿で触れたロヒンギャの虐殺は、その一例かもしれません。

 

仏教だけでなく、キリスト教イスラム教も始祖は、ブッダであり、イエス・キリストであり、ムハンマドであり、それぞれ1人だったはずですが、今はどの宗教も数え切れないくらい宗派に分かれています。

 

政治や統治に利用するために都合のいい解釈をしてきたこともあるでしょうし、時代や地域文化の違いによってまたそれぞれに都合のいい解釈が出てきた面もあるでしょう。

 

それはそれで価値観の多様性の一端を表しているようにも感じます。

 

本書は、著者いわく「仏教の初心者向けに」ということですが、なかなか読むのは大変でした(^^)著者の深い研究を限られたペース数に収めるためには、やむを得ないのかもしれません。

 

ただ、かいつまんだ程度の理解でしたが、視点や論点の発展のさせかたはどれも迫力を感じます。著者、渾身の一冊ではないか、と。

 

 

 

 

ところで、本文とは関係ないのですが、本書のあとがきに衝撃的なことが書かれていました。

 

著者は、様々な考察をつうじて自身の研究成果を本書で紹介してくれていますが、その過程でそれまで仏教界の重鎮たちでさえも容赦なく批判をするところがあります。

 

研究において、異なる学説をぶつけ合うことはとても有意義であり、その上に立った批判という行動は、健全なる研究活動の一環のはず。

 

ところが、本書の前に出版しようとした書籍の内容が、ある学者(本書では実名で登場しています)を批判している内容を含んでいた所、この学者及び関係者から出版妨害、教授になりたければ出版を諦めろといった脅迫があったそうです。

 

www.daizoshuppan.jp

 

https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1313/files/004_100_24.pdf

 

学術研究を勘違いしている人物が少なからずいるようで、残念な話です。。。

読書会〜学びとは何か

 

今年最初の読書会の課題図書はこちら。著者の今井むつみ氏の著作は、2023年10月の読書会で取り上げた「言語の本質」(共著)に続き、2回目です。

 

www.almater.jp

 

前回同様、今回の本もとても内容が濃いものでした。

 

本書には「<探求人>になるために」という副題がついています。

 

本のカバーでも著者が「学びとはあくなき探求のプロセス」と定義しています。

 

著者はカバーで更に続けます。

 

”単なる知識の習得や積み重ねではなく、すでにある知識からまったく新しい知識を生み出す、その発見と創造こそが本質である。”

 

ここでいう「知識」の定義にも注意が必要です。

 

そして本書の「はじめに」のあとに、なんと将棋界のレジェンド羽生善治九段が寄稿しているんです!

 

羽生九段は「天才」とも言われること少なからず。そして著者には「超一流の熟達者」の1人として紹介されています。

 

本書はこんな構成をしています。

 

第1章で「記憶力がいい、とはどういうことだろう」「知識とはなんだろう」という投げかけから始まります。

 

第2章で「子供が言語を覚える過程」に着目し、”学ぶ土台”について言及。

 

第3章で”スキーマ”という概念をとりあげ、「学ぶときの壁をどう乗り越えていくか」という過程を述べています。

 

第4章で「学び続けた先にある”熟達”」について言及し、”直観力”との関連性について触れています。

 

第5章で「熟達によって脳はどう変化するのか」と”脳”内に目を向けます。

 

第6章で「生きた知識」について語られます。

 

第7章で「超一流の達人」にどうやってなれるのか、天才ってどういうことなのか、について切り込みます。そのキーワードが”探求”です。

 

そして終章で「探求人を育てていく」環境について著者の問題提起、提案が述べられています。

 

ずばり、「天才」とは・・・「一流の達人」とは・・・「それは向上する努力をし続ける力を持っている人」というのが羽生九段の言葉。

 

遺伝的に特定の能力が生まれたときから備わっているわけではなく、自分の現在地を把握し、目指す姿をイメージして、ほどよい目標値を定め、その目標を達成するための努力をし続けること。

 

そこには”遊び”があり、自分の意志で行動し、楽しむことができ、それ自体が目的であることが必要。

 

大リーグの大谷翔平は、学生の頃から自分の目指すレベルをイメージして、そのために何が必要かをブレークダウンして、トレーニングを楽しみながらやっています。

 

将棋の藤井聡太は、小さい頃から詰将棋が大好きで、ひたすら将棋ばかりを楽しんでいたといいます。

 

元大リーガーのイチローは、子供の頃バッティングセンターで、プロのスピードをイメージさせるために、ボールを投げる機械のバネ力を強くしてもらい、打ち込んでいたと本書で紹介されています。

 

寝食忘れて、楽しみ続け、壁にあたったら一生懸命打開策を考えて創造して乗り切って、新しい壁にまた挑戦していく、こんなプロセスの繰り返しなんでしょうね。

 

 

 

思い起こせば自分が子供の時に、ちょっとばかしみんなよりできていたものって、小さい時から夢中になっていたことが関係しているように思えました。

 

私は幼稚園に入る前から父とキャッチボールとしていて、当時住んでいた社宅の壁に向かって毎日といっていいほど、プロ野球のピッチャーのマネをしながらボールを投げていました。小学校のころからずっとピッチャーをやっていたのは、その時に夢中になって遊んでいたからかもしれません。

 

また学研シリーズの「〇〇のひみつ」というシリーズものが大好きで、それこそ欄外の豆知識まで頭に入るくらい何度も何度も読み続けていたことがあり、今から思えばそれらが学校で学んだことの基礎になっていたかもしれません。

 

ただ私には、大きな目標や自分のレベルをちゃんと見定める力はなかったようで^^;;達人の領域には到底及ぶことはかないませんでした。

 

学校にいくようになって、「教わったことを身につける」と「大人に喜ばれる」ことを知って、「自分から探求する」ことをしなくなってしまったのかも。。。

 

今の自分の創造性の低さを思うと、なかなか残念です(笑)

 

会社をやめたときから「何か寝食を忘れて夢中になれることをみつけたい」と言い続けて(まだ見つかってないのですが)いたのは、能動的に探求し続けたいという気持ちなのかもしれません。

 

 

 

そんなふうに思うと、第一線で活躍している人、あるいは達人目指している人を、リスペクトできるし、何か応援したい気持ちにもなります。

 

本書を読むと、一流の人達に対する見方に、ちょっと広がりをもてるかもしれません(^^)

読書会〜共感革命

 

今回の課題図書はこちら、「共感革命」。

 

人類は「共感」することからコミュニケーションをとるようになり、やがて世界を作り生物の頂点にたったが、この「共感」の”暴走”によって世界を壊している、と指摘。そのきっかけは「定住」にあるとして、もっと「遊動」することで世界がよりよくなることを期待している、とまとめた本です。

 

「共感」というところが、人類にとって”武器”ある一方、”凶器”にもなってしまったという視点はとてもおもしろく感じました。

 

人類は「言葉をつかうようになって社会をつくりあげた」という説に反論し、「言葉以前に踊りや音楽で感情を共有する、すなわち”共感”を通じて意思疎通をはかっていた」という説を展開。

 

「共感」は「相手を思いやる」ことで育まれ、これが社会の礎になったといいます。

 

著者の主張の展開は以下のような感じです。

 

====

狩猟・採集時代は、人々は獲物をもとめて渡り歩く「遊動」生活を送っていて、取った獲物を平等に分けるのが習慣で、この平等な分配が社会を支えていた。

 

それが農耕・飼育時代になると、成果を生む場所が固定される「定住」生活になるため、その成果を守る、あるいは自分たちの成果が足りないときに、他人の成果を奪う、という行動がうまれ、これが争いをうんでしまった。

 

思いやりの気持ちが「共感」の源泉だが、仲間を思いやる気持ちが強いあまりに、”敵”をつくりあげてしまい、これが争いを生んでいる。まさに「共感」の”暴走”である。

 

能力の違いで成果に差が生じて、それが不平等を生み出し、権力が生まれた。

 

人間は本来争うことを好まなかった生き物だった。

====

 

 

昨今戦争や争いを当たり前のように見聞きしていると、人は元々そういうものだ、と思いがちですが、著者はその考えに対して明確に否定しています。

 

この主張はパッと見、平等主義、共産主義的な思想、と捉えられがちですが、著者は、ヒトに最も近い生物である類人猿(※)の1つ、ゴリラの研究者でもあり、生物学、自然科学的な視点で説を展開しているのが特徴。

 

(※)類人猿は生物学的分類でいうと、ヒト上科に属する生物で、現在はさらにテナガザル科とヒト科に分化されます。テナガザル科はテナガザル、フクロテナガザルなどが所属。ヒト科は、オランウータンが属するオランウータン亜科とヒト亜科に分化。ヒト亜科はさらにゴリラが属するゴリラ族とヒト族に分かれ、ヒト族はチンパンジー亜属、とヒト亜属にさらに分化されます。大型類人猿としては、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーボノボがあげられます。

 

資本主義だ、社会主義だ、共産主義だ、宗教だ、といった思想的背景ではないので、ある意味安心して読むことができます(^^)

 

比較的時系列でヒトの発展をたどってきており、読みやすくまとまっています。第5章「戦争はなぜ生まれたのか」はなかなか興味深いです。

 

 

 

ヒトは、病気や事故、事件に巻き込まれない限り、生物学的に80年から90年生きることが可能です。その一生の送っていく間、自我に目覚め、好奇心に踊り、大きくなることを望み、やがて”相応”というところを感じ始め、自然な流れに身を任せていく、といった変化をたどっていくように思います。

 

著者が本書の中で「人間が恐ろしいのは、神の手を持つ願望があること」と述べています。ヒトの成長でいえば、「大きくなること」をまだ望んでいるようなフェーズと重なる気がします。

 

しかし、年齢を重ねていくと自分の体が思うようにいかなくなることを自覚し始め、それが”相応”を感じるきっかけになるような気がして、今の社会でいえば、戦争や自然環境の変化の大きさが、”思うようにいかなくなってきた”事柄と思うと、これも重なるところを感じます。

 

 

 

メタバースやChatGPTについても言及がされ、著者なりの見解も述べられています。

 

今後「社会」とどう向き合っていったらいいのか、を考える上で1つの視点を提供してくれる本だと感じました。

 

 

 

 

私的には「あいだ」という概念が、私が普段意識している「グレーゾーン」という考え方にとても近しい感覚を覚え、まさに「共感」を覚えました(^^)

読書会〜安いにっぽんからワーホリ!

東北旅行の投稿が続いていますが、ちょっとブレイク。

 

今回の読書会の課題図書はこちら。

 

最近、海外に仕事を求めて若い人たちが流出しているという記事やニュースを目にすることがあります。

 

ワーホリ、すなわちワーキングホリデーを活用する人たちには、とりわけ注目が集まっているようです。

 

テレビのドキュメンタリーで

・海外の賃金の高さにびっくり

・仕事とプライベートが両立できる

・日本で仕事するのが馬鹿らしくなった

 

などといった部分がクローズアップされ、日本の賃金があがらないことへの嫌味的な編集が目につくことが多く、その度に「海外で暮らすというのは、そんな単純なものじゃないんだが」と一応海外在住経験者の一人として違和感を感じていました。

 

本書もその片棒をかつぐような内容なのかと思っていましたが、実際に読んでみると、その逆でした(^^)

 

海外の賃金の高さばかりに目がいってると、痛い目に遭う恐れがあるし、せっかくの機会を活かせないぞ、というアドバイス的な立ち位置です。

 

この本では、実際にワーホリを活用した人たちに直接インタビューをして、現地に行くまでの準備、現地での生活、そこから得られる機会などをたくさん紹介してくれています。

 

そしてワーホリは、「稼ぐため」の手段ではなく、「新しい人生をきりひらくきっかけ」にする手段であることを、この本では主張しています。

 

そしてワーホリを十分活かすためには、「現地の言葉の習得」はかなり重要であることも主張しています。

 

ワーホリのプログラムの中には現地の言語学校に通って学ぶことも可能。これはこれで、学校で知り合った仲間とのつながりができて有効な機会の一つではあるのですが、やはり事前にある程度勉強をしていく姿勢も必要。

 

この本ではワーホリの受け入れする国が基本英語圏なので、英語という観点で話ししていますが、ワーホリを受け入れている国はスペイン語圏だったり、ヨーロッパの非英語圏だったり、北欧だったり、韓国だったり、いろいろあります。

 

つまり、「現地で働く」には「現地の言葉を話せる」ことが「働くためには有利に働く」ということです。

 

自分の仕事を外国人に手伝ってもらうとき、日本語を話せない人より話せる人の方を採用で優先してしまいますよね。

 

また現地に行くための「準備」も大切であることを伝えています。

 

日本では、良くも悪しくもいろいろ”やってくれる”サービスが多いのですが、海外にいけば「自分でなんとかする」という行動力が必要。

 

つまり滞在先を見つけて交渉したり、仕事先を見つけるなんていうことは自分でやらなければなりません。

 

このあたりは「社会主義」ではなく、いい意味での「個人主義」「資本(自分のリソースという意味で)主義」の世界だと思います。

 

そしてそういった”体験”を通じて、自分たちが”生きていける”自信を培うことができるのも大きな魅力と、本書では述べています。

 

 

 

昨今の報道では「現地に行けば、儲かる」的な伝え方をしていますが、ワーホリを含め海外に移住するということは、そんな与えられるものではなく、「自分からつかみにいく」行動力があってこそ、というマインドセットをしてほしい、というのが本書の狙いと感じます。

 

私も2年ばかり海外赴任をした経験があります。かなりの部分を会社がサポートしてくれていたので、この本で紹介されるほどの行動力を必要とせずにすみましたが、それでも、「自分で動かないと」という面はあったので、本書で書かれていることはかなり共感できる部分があります。

 

 

 

 

新刊なので、今年の報道をうけて語っているので、時事的にも新鮮です。

読書会〜誘拐

 

今回の課題図書は、こちら「誘拐」です。

 

東京オリンピックの前年1963年(昭和38年)に起きた「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件」を描いたノンフィクション小説です。

 

東京台東区の公園で遊んでいた吉展ちゃんが、小原保という時計職人に誘拐され、家族は身代金を要求されました。

 

警察の一瞬のスキをつき、警察の初動ミスもあって身代金はまんまと奪われ、肝心の吉展ちゃんは帰ってこず、迷宮入り寸前になります。

 

2年後捜査をやり直ししたところ、当初より容疑者の候補にあがりつつも、証拠不十分、アリバイの存在のため調査にまで至らなかった小原が再び容疑者としてあがってきました。

 

アリバイを崩された小原は犯行を自供。自供に基づいて吉展ちゃんの遺体が墓地で発見されました。

 

死体はすでに白骨化しており、小原の自供によると誘拐してすぐに殺害したことが判明。身代金の要求をしていたときはすでに吉展ちゃんは亡くなっていました。

 

小原は1966年一審で死刑を求刑され、その後上告をするも1967年最高裁で上告が棄却され、死刑が確定し、1971年に執行されました。

 

このあらすじだけだと、罪のない小さな子供を誘拐し、殺害した挙げ句に知らぬ顔で遺族に身代金を要求し、まんまとせしめたという極悪非道な事件、ということで終わってしまいます。

 

この本は、吉展ちゃんの遺族はもとより、犯人の小原、当時小原の愛人でほど同棲状態だった成田キヨ子、小原が努めていた時計屋、小原の親族、小原と付き合いのあった関係者、第一回から第三回に至るまで捜査に関わった警察関係者など、それぞれの人物像に入り込んでいて、事件を広い視野から捉えようという試みを感じさせられます。

 

著者があとがきで「これ(この本)を元にテレビ化され(中略)放映されたあと、プロデューサーと監督が(中略)挨拶に出向いた際、遺族が『(中略)犯人の側にもかわいそうな事情があったことを理解出来た』と(中略)述べられた」と記載しているように、犯人憎しの遺族にも一定の評価をうけているようです。

 

いろいろな登場人物が、ザッピングみたいに登場してくるので、吉展ちゃん事件を知らない人がいきなりこの本を読むとちょっと混乱するかもしれません。

 

Wikipediaなどで、吉展ちゃん事件の概要をある程度予備知識を得て、吉展ちゃんは村越家で、犯人が小原保、その愛人が成田キヨ子、くらいの主要人物を頭においてから読むと、まるでドラマや映画を観ているように、むしろザッピングのような展開の変化が、本書のストーリーに動きを与えるように感じます。

 

犯人の小原保は、本書では最後は人間らしく死んでいきたい、と死刑を受け入れて改心したという流れで終わっていますが、上告審では自白の内容を修正しています。ただそのことは、本書では触れられていません。

 

自白の修正が受け入れられていれば、殺人罪ではなく過失致死罪になって死刑を免れる可能性があったようです。

 

小原の自供を引き出したのが昭和の名刑事と言われている平塚八兵衛。実はこの事件の前には帝銀事件で当時の捜査本部の方針に反対し独自に調査を進め、平沢貞通死刑囚を逮捕にこぎつけた実績があります。

 

しかしご存知のようにこの事件、平沢死刑囚は冤罪を訴えているので、真犯人かどうかは不明です。

 

また平塚八兵衛は、吉展ちゃん事件のあと三億円事件にもかかわったが、自身がリークした情報を元に誤認逮捕してしまった被疑者がその後自殺する、ということもありました。

 

多くの事件を解決してきましたが、いわく付きとも言えなくもありません。

 

 

 

私が生まれる前に起こった事件で、戦後わずか20年にも届かない時代、まだ生きるということに一生懸命で、部落や閉鎖的な社会がまだまだ根強い日本で、一方では東京オリンピックを軸に高度経済成長まっしぐらだった日本の社会の、なにかこう引き伸ばされたチューイングガムのような、不快感のある歪みたいなものを感じさせられました。

 

今の時代、コンプライアンスや人権といった概念が広まりつつありますが、逆にそういった歪が表に出にくくなってきているのかもしれません。

 

犯罪の裏には何かしらの歪があるというのは、いつの時代でも変わらないのかもしれません。

読後感想〜税金のゆくえ

 

久しぶりに読書会の課題図書以外の本を読みました。

 

先日「友情を哲学する」という本が課題図書となりました。光文社は最近の自社が発行した書籍のリストを巻末に掲載していて、この本の出版時期が比較的最近だったこともあり、比較的新書がリストされていました。

 

本書はその中の1冊。

 

税金についてちょっと関心をもったこともあり、どんな内容だろうと購入してみました。

 

www.almater.jp

 

本書は、税金がいろいろなところで、団体、企業により”中抜き”されて、結果として税金が必要以上に使われているという実態を、取材を通して明らかにした本です。

 

一般社団法人による中抜き、電通によるオリンピック開催費用のぼったくり構造、ゼロゼロ融資による国公立病院の不正、消防団など地域コミュニティーによる搾取の構造、乱立する基金、など税金の疲れ方としてかなり酷い実情を取り上げています。

 

著者の個人的意見が事実と混ざってしまっているところがあるが、取材を通して実態を明らかにする調査力は評価できます。

 

ここにあげられている様々な税金の無駄遣いの実態の原因は、本書の書き方では「人員不足による管理体制の不備」にある、との指摘です。

 

確かに結果的に諸々の使われ方を審査し、予実実績を一定期間管理する人員が確保できていないことは、著者の調査で明らかになっています。

 

問題は「なぜ人員が確保できていないか」というところ、にあるかと。

 

つまり、「多くの人員を必要とする」状態にあることがその背景にあるはずです。

 

私の印象では

助成金補助金の審査、管理システム

・受け取る側のモラルハザード

 

このあたりに根本的要因を感じます。

 

モラルハザードについては、「国から取れるものはとっちまえ」とか「ばれなきゃいい」といった感覚だったり、「お金はたくさん欲しい」という欲に起因しているわけで、人間である限り避けようのない面が強そうな気がします。

 

「うまくいったな、しめしめ」と思って国が用意したお金を吸い取って喜んでいる人たちは、それが自分たちの税金から構成されている自覚がない、あるいは希薄な人が多いだろうし、自覚している人は「元取っているよ」なんてしたり顔しているかもしれません。そのツケを自分たちの子供が背負わされていることに思いが向かないんだろうなぁ。。

 

喫煙者のマナーが社会問題になって、路上喫煙禁止、公共の場所での喫煙禁止、分煙への規制など、喫煙者にとってはかたみのせまい世の中になってきましたが、元は言えば喫煙者自身の行動が原因。

 

天に唾を吐くとはこのこと。

 

news.yahoo.co.jp

 

”緊急”ということで、国が手を差し伸べた融資も1兆円が回収不能らしい。もちろん事業はやってみなければわからないものだから、精一杯やってそれでもだめだった、というケースはあるでしょう。それは仕方がない面があります。

 

でもねぇ、この融資でいろいろなモラルハザードがあったであろうことを本書でも紹介しています。

 

ここは、ルールや仕組みで縛りをいれなければ管理は難しい。

 

審査、管理システムを改善していくにあたってのキーは、透明性、ではないかと。

 

たとえば持続化給付金や助成金の申請では、毎年法人税を申告する際に財務情報を提出しているので、法人番号と財務情報が税務局だけでなく、各省庁と連携することで、申請側は申請業務を、受け取り側は審査業務をある程度簡素化することが可能ではないかと。

 

個人ベースの給付金であれば、源泉徴収状況、確定申告状況が各省庁と連携していると、給付金の支給の自動化もある程度可能になりそうです。マイナンバーカードは本来そういったことに寄与できるインフラになりうるはずなんですよね。

 

また税金を投入した企業、団体、自治体の財務状況を公開するのも、荒治療ですが効果を期待します。監督部署の目が届かないところは、市民による監視・管理があることで、ある程度の不正を防ぐことは可能ではないか、と。

 

いずれも概念レベルなので、実装となると多くの課題があるので容易ではないことは百も承知ですが、酷い実態があることに気づかせてくれたという意味で、本書の役割は大きいと思います。

 

たった1冊の本にまとめていますが、複数のテーマについて扱っており、「1次情報でないと信ぴょう性に欠ける」というジャーナリストとしてのポリシーをもっている姿勢からも、真摯に取材活動を続けてきたのでは、と想像します。

 

国防については他国への秘匿という要素も必要なため、ある部分についてはブラックボックスもやむを得ない面もあるかとは思います。

 

ただ、もっと広く税金の使われ方、という観点でいえば、もっとオープンにすることで改善される内容がかなりありそうだということを本書から感じます。

 

本書で指摘されていた「基金の乱立」について、つい先日河野大臣から全面見直しの方針がでました。

news.yahoo.co.jp

 

本書を読んだばかりなので、タイムリーな話題。税金の使い方の見直しにつながる表明でもあり、こういう活動は評価したい。抵抗も強いだろうから、簡単には進まないと思われるけど、メスをいれてほしい。

 

一方で、”減税”は「余った税金を還元するのではなく、原資が存在していないため、借金をする必要がある」という鈴木財務省の発言は驚いた。

news.yahoo.co.jp

 

”減税”の大義名分を失ってしまったわけだ。これは岸田政権にとってもキツイのでは。

 

閣僚などの給与アップは、それ自体は問題となる話ではないけど、お金の使い方に疑問を呈する流れになってしまって、本来問題にならないはずだった給与アップの話がからめられてしまって面倒なことになっているように見えます。

 

私よりはるかに優秀で、思慮があり、情報も持っている人たちが政治家、官僚として活動しているので、私が思っている世界のもっと外側にいろいろな事情があるであろうことは、そんなに外れていないとは思います。

 

第二次大戦以降、戦争をしなかったことは最大の功績と思いますが、260兆円を超える借金による将来への負債は、平和と安全という無形の財産の代償なのだろうか、と勘ぐってしまいます。

 

我々国民の関心を高めるのも自浄作用に貢献できると思います。

 

そのためには、税金や国政について学ぶ機会をいろいろなところで盛り込んでいくことも、最終的には税金をよりよく利用する流れに寄与するのかな。

 

いろいろ考えさせられる本でした。

 

読書会〜友情を哲学する

 

 

今回の読書会の課題図書はこちら、「友情を哲学する」でした。

 

「七人の哲学者たちの友情観」という題が付随しているように、7人の代表的な哲学者がそれぞれの視点で「友情」を定義しようとしています。

 

どんな哲学者でしょう(^^)

 

アリストテレス

カント

ニーチェ

ヴェイユ

ボーヴォワール

フーコー

マッキンタイヤ

 

この7人です。ニーチェまでは知っていましたが、ヴェイユ以下の哲学者は残念ながら知りませんでした^^;;

 

本書のユニークなところは、それぞれの哲学者がかたる「友情」の定義にマッチする日本の有名な漫画が取り上げられているところ。

 

例えば「友情の哲学」の祖ともいえるアリストテレスは「自律的な個人による愛の関係」として友情をとらえ、「一心同体ともいえる関係」「愛によって結びつく関係」が該当するとしています。そんな友情を表している例として、キングダムがあげられていました。

 

ただアリストテレスの定義ではいくつか矛盾な面が見えてきます。

 

その一つに対して新たな見解をだしたのがカントです。「愛」だけではむしろ友情を破綻してしまうことがある、として、「自律的な個人による関係」であることはアリストテレスを受け継いでいるのですが、「愛だけでなく、加えて尊敬によって結びつく関係」が友情である、としました。カントの友情を表している漫画として紹介されていたのが「HUNTERxHUNTER」です。

 

アリストテレスとカントが「自分と同質」な人同士に友情が生まれるのは「”私”が友達のことを理解している」ことを前提にしているのに対し、友達である2人を超える何かが友情である、とそれまでの前提を否定し、自分と異質な人同士にも友情は存在する、としたのがニーチェです。ライバル同士の友情のような関係です。紹介された漫画は「NARUTOーナルトー」です。

 

ニーチェと異なる展開を見せたのがヴェイユ。友達への純愛を突き詰めることで本当の友情が生まれる、と主張。重力という概念がキーとなるのですが、詳細は本文で(^^)そんなヴェイユの解く友情を表した漫画として「3月のライオン」が紹介されていました。

 

アリストテレス、カント、ニーチェの友情論は、実はいずれも「男性の関係」を語っているそうです。極端なことをいえば「女性の友情」は男性のそれより劣る、という味方をしていたんだとか。そ〜んなことないでしょ!と異議をとなえたのがボーヴォワール。「君に届け」という漫画が紹介されていました。

 

じゃあ、男女の友情はあるのか。恋愛と友情は違うのか、そういう論点につっこんだのが、フーコーです。恋愛は異性間だけでなく同性愛者の友情にも切り込みます。「社会の規範」がキーとなっていて、権力に支配されない友情について語ります。そんな関係を表す漫画として「青のフラッグ」が紹介されていました。

 

それまでの伝統的な友情論は、「自立した人間同士」という関係が前提となっていました。じゃあ、友達に依存しちゃいけない?という視点で切り込んだのがマッキンタイヤです。漫画「タコピーの現在」が紹介されていました。

 

まあ、哲学なのでちょいと小難しい面もありますが、本書は哲学系にしては比較的わかりやすい本でした。

 

おそらく本書の構成がわかりやすくまとまっているからではないか、と思います。7つの章が関連性ともってつながっていて、キーとなる話が何度も繰り返されるような構成です。

 

また、漫画の一部を切り取って掲載しており、紹介された漫画を知らない私でも、哲学者たちが語る友情というものをイメージする助けがあることもいいですね。

 

ここに紹介されている友情の形は、どれが正しいというものではなく、様々なスタイルが存在することを想定させてくれる枠組みではないかと思います。

 

なお、プロローグとエピローグで紹介されていた漫画は「ONE PIECE」でした(^^)

読書会〜高熱隧道

 

今回の課題図書は久しぶりのドキュメンタリー小説、吉村昭作の高熱隧道です。

 

昭和11年8月に着工し、昭和15年11月に完工した黒部第三発電所。人間が踏み入れない渓谷にトンネルを掘鑿(くっさく)する工事の模様を描いた小説。

 

登場人物はフィクションですが、実際にあった話をベースにしているので、臨場感たっぷりの小説です。

 

この工事、犠牲者が300人を超えるという難事業。

 

重たい資材を背負ってせまい山道から滑落するもの、ダイナマイトの誤爆でバラバラになってしまうもの、恐ろしい雪山に襲われたもの(内容はネタバレになるので控えます)、実にあっけなく人が死んでいく環境で、ひたすらトンネル貫通を目指す男たち。

 

最大の難所は、岩盤温度が165℃にも達する高熱地帯。

 

工事事務所長の根津と工事課長藤平という2人の人物を軸に、極限におかれた人間たちの模様を実に丁寧に描いています。

 

 

 

 

この小説では、工事事業がピンチにあい、絶望的な状況に陥りそうになりながら蘇ってくるという展開が何度も訪れます。

 

自分たちの力でなんとかすることもあれば、当時の状況(黒部ダム建設は重要な国策の一つでもあった)に救われることもありました。

 

しかし復活する都度、また多くの人達が次のトラブルで犠牲になっていくのは、なんともいいようのない気持ちにさせられます。

 

通常の数倍の給与がもらえるから、と、サウナのような洞窟で作業をする人夫たち。

 

激アツの風呂のような水たまりに腰までつかって火傷状態で作業をする人夫たち。

 

技師や人夫頭を信じて作業をしたのに、不慮の事故で命を落とす人夫たち。

 

散々な目にあっている人夫たちですが、命の危険を顧みないというか、ほぼ思考停止状態にも見えるのですが、そんな人達が一度気持ちがひくとそれを元に戻すのが大変。

 

そして指示をする立場にある技師たちが危険を感じるほどの空気を醸し出す。

 

「やられるんじゃないか」

 

よくテレビで見る群衆の暴動などと重なるイメージがあります。

 

トンネルが貫通し、目的を果たしたことで、意気揚々となるはずの根津や藤平は逃げるように山を降りていくラストシーンは、この小説で描かれている人間心理描写がよく表れている気がします。

 

指針を決定し指示する一握りの人間と、その指示に盲目的に追従する大衆という構図があって、その大衆は追従するときに盲目的ではあるけど、一つ間違えれば強烈な反抗をしめし、それも盲目的であるところに恐ろしさがあります。

 

この構図って、人間社会ではじつによくあって、国と国民、会社と従業員など、人の集まりがあればどこにでも生じうるものです。

 

そして自分は”大衆側”でない、と自認していても、実は自分より遥かに広く深い視野・洞察力を持った人にコントロールされていて、実は大衆側にいることに気づかず、世の中を知ったような気になっている人も少なくないでしょう。

 

コントロール側の暴走も、大衆の暴走も、いずれも怖いもので、その両方の怖さをこの小説は見事に描いているように感じました。

 

 

 

この小説で「泡雪崩(ほうなだれ)」という現象が登場します。

 

雪の塊が坂を滑ってくる雪崩とは違って、空気爆発のような現象らしく、宿舎が数百メートル吹っ飛ぶという強烈な現象らしいです。

 

多雪地域で発生するそうで、新潟県富山県の豪雪地帯で起こったことが確認されているようですね。

 

1986年に発生した泡雪崩では、雪崩の速度が時速180kmと、新幹線並みの速度だったらしい・・・

 

初めて知りました。すごい現象があるんですね・・・

読書会〜言語の本質

 

読書会の今回の課題図書はこちら。

 

認知科学言語心理学発達心理学を専門とする今井むつみ氏とオノマトペの研究など認知・心理言語学を専門とする秋田喜美氏の共著。

 

ブーブー、とかワンワン、といった赤ちゃん、小さなお子さんが使うこの繰り返し言葉をオノマトペといいます。

 

本書はこのオノマトペとはそもそもどんなものなのか、という第1章からスタートし、言葉のもつ「アイコン性」について検証、そこから、オノマトペは言語といえるのか、そもそも子供はどうやって言語を習得していくのか、AIとの関係は、ヒトと動物をわけているものは、言語の本質とは、AIとヒトとは何が違うのか、という根本的な問に深く入っていきます。

 

269ページの新書ですが、なかなか内容が濃く、数本の論文がギュッともりこまれているような印象をうけました。

 

「はじめに」でも記載されていますが、言語の本質を考える上で「記号接地問題」について考える必要があり、本書も「記号接地問題について本書で考えていく」と記載されています。

 

記号接地問題、って難しそうですね(^^)

 

そもそも言語って記号だよね、という見方がされていましたが、単なる記号じゃないよね、という考えが主流だったんですが、ではその記号に意味があることをどうやって身につけるのだろう、すなわち「言語という記号」をどうやって「身体に身につける、すなわち接地」させるのだろう、という問いかけです。

 

AIの研究からでてきたこの問題。

 

「梅」という言葉について、「すっぱい」という言葉があてはまるとすると、「梅」=「すっぱい」と理解できますが、では「梅」ってどんなもの?「すっぱい」ってどういうこと?という”意味”がなければ、「知った」ことにならないですよね。

 

どうやって結びつけるのだろう。どうやって子どもたちは身につけていくのだろう。

 

そんな疑問から始まります。

 

本書ではもう一つ、ヒトと動物を切り離している要素の一つ「アブダクション(仮説形成)推論」という学ぶ力を取り上げています。

 

推測の仕方には、「演繹法」と「帰納法」が有名ですが、さらに「アブダクション推論」が加わります。

 

本書にあげられている例を引用してみます。

①この袋の豆はすべて白い(規則)

②これらの豆はこの袋の豆である(事例)

③ゆえに、これらの豆は白い(結果)

これは演繹法です。ある規則が正しいと仮定し、その事例が正しければ、正しい結果を導く方法です。日本人は日本語を話します。この人たちは日本人です。ゆえに、この人たちは日本語を話します。という感じ。

 

①これらの豆はこの袋にある(事例)

②これらの豆は白い(結果)

③ゆえに、この袋の豆はすべて白い(規則)

これは帰納法です。この人たちは日本人です。この人たちは日本語を話します。だから日本人は日本語を話すでしょう。という感じ。

 

アブダクション推論はこんな感じになります。

①この袋の豆はすべて白い(規則)

②これらの豆は白い(結果)

③ゆえに、これらの豆はこの袋から取り出した豆である(結果の由来を導出)

日本人は日本語を話す。この人たちは日本語を話している。だからこの人たちは日本人だろう、という推測の仕方です。

 

このアブダクション推論が、実は考える元になっているんじゃないか、という説を本書で紹介してくれています。

 

今ある知識を活かしてさらに知識を増やすことをブートストラッピングといいますが、このブートストラッピングを駆動する立役者がアブダクション推論ではないか、ということです。

 

 

 

ちょっと難しい話になりましたが、これからのヒトとAIの関わりを考えたり、身近であれば英語などの第二言語を学ぶときだったりするときに、この本で紹介されている視点や考え方はとても参考になる気がしました。

 

また言葉は文化でもあり、言葉が示す範囲が異なることを理解することで、文化の違いを理解する、すなわち多様性を意識することにもつながるのでは、とも感じます。

 

これもなかなかいい本でした(^^)

読書会〜自衛隊の闇組織

 

今回の読書会の課題図書はこちら。自衛隊の中に、首相や防衛大臣も知らないという特別組織「別班」が存在しているかもしれない、という情報をつかんだ筆者が、長い時間をかけて追いかけて掴んだ情報をまとめたもの。

 

ちなみに、日本政府はこの組織について2013年12月の答弁書で「『陸上幕僚監部運用支援・情報部別班』なる組織については(中略)、これまで自衛隊に存在したことはなく、現在も存在していない」と否定しています。

朝日新聞GLOBE+のページより引用)

 

人気テレビドラマ「VIVANT」で堺雅人さん演じる主人公が「別班」員だったらしく(私はこのドラマをみていない)、この「別班」という言葉はかなり認知度が上がったようです。

 

著者がこの「別班」の取材に取り組んでいる理由、それは上述したように「軍人」の集まりである自衛隊のトップにいるはずの防衛大臣、首相という「文人」によるコントロール、すなわちシビリアンコントロールが効いていないのではないか、という疑念を感じたからです。

 

シビリアンコントロールは、第二次世界大戦以前に陸軍(関東郡)が政府の意向を無視して暴走し、戦争を引き起こしたことを反省してできたルールです。

 

それが効いていない、というのは再び「軍人」が暴走する恐れがあり、憲法違反ではないか、というわけです。

 

ちなみに「別班」と呼ばれている人物たちは、国内のみならず海外にもいて諜報活動などを行っていると言われているそうです。

 

 

 

 

さて、本書を読んでの感想です。

 

著者はシビリアンコントロールが侵されているおそれがある、ということで、なかなか情報を取ること自体が難しい自衛隊組織に、様々な工夫をして取材を試みます。

 

この取材力や行動力はさすがですね。

 

ただ取材する方向性がこれでいいのかなぁ、という気持ちは感じました。

 

別班が衆議院で質問をされたのは2013年。当時は安倍政権。

 

その時点での状況で考えれば、憲法改正自衛隊を明記し、集団自衛権の拡大を目指していた安倍政権としては、別班の存在はむしろ歓迎すべき存在と見ることも可能。

 

それ以前に目を向けて、戦後直後からみると、「戦争放棄」をうたって「戦争をしかけません」と宣言したところで、米ソ冷戦が始まり、後に中国経済の成長による米中関係が微妙になり、北朝鮮からは工作員が侵入してくるような状況で、国を預かる政府は、平和ボケしてのほほんとしている場合ではなく、常に隣国、世界がどう動いているのかを知るために緊張を仕入れられていたのではないか、と仮説を持つことはそんなに無理を感じない気がします。

 

「別班」の存在自体を調査することが困難であることから、存在していたとしたら、というその先の考察まで意識をもっていくことはさらに困難かもしれません。

 

ただ、国防に関することをただの暴露記事にするだけでは、中国や北朝鮮といった国々がいいがかりをつける材料になってしまうだけ、という懸念を感じます。

 

もしこの著者が懸念しているように、陸軍が暴走していたとしたら、それが陸軍トップの幕僚長の判断で行われているとは、ちょっと考えにくい気がします。なぜなら、その動機が考えにくいから。

 

いずれ軍のクーデターを狙うくらいの野心があるとしたら、長期間トップの座に君臨し続けるだろうし、ちょくちょく交代される今の幕僚長にその動機を求めるのはなかなか難しい印象。

 

あるとすれば、その幕僚長を裏で操る人物あるいは組織が存在している場合。ただそうなった場合はCIAが勝手な動きはさせないだろうし、政府を無視してまで進めるメリット自体がないように感じます。巻き込んだ方が絶対やりやすいだろうから。

 

一方で、政府が実は知っていたとしてもそれを公にすることは、対外関係、特に中国に対して喧嘩売っているのと同じで、メリットを感じません。知っていても公にできない背景があるかもしれない、と考えることも可能です。

 

 

 

 

そういったいろいろな考察が考えられる問題に対し言及がないことから、私個人としては表面的なことにとらわれているような印象を感じました。

 

外交、国防、複雑な問題は簡単に語ることはできませんが、こういったことがある、ということを本を通じて認知させることは意味があると感じます。