タイトルだけを見ると「最近の若者は本を読まない」といった話を想像してしまいますが、実際にはもう少し根の深い問題を扱っている本です。
本書の中では、学生や若い保護者へのインタビューを通じて、「本が読めない」というよりも、「長い文章を読み通すことができない」人たちの姿が描かれています。
文脈を追えない、比喩や行間が理解できない、文章全体をひとまとまりの意味として受け取れない、といった特徴が挙げられています。
それは単に個人の能力の問題ではなく、スマートフォンやSNSを中心とした情報環境の変化によって、短く即時的に理解できる情報に最適化された結果だと。
つまり、長文が読めないのは努力不足ではなく、ある意味では「環境への適応」であり、構造的な問題である、という見方です。
この説明には確かに納得感があります。
一方で、だからといって「それでいいのだろうか」という引っかかりも残りました。
環境がそうさせているのだから仕方がない、と受け入れてしまっていい問題なのでしょうか。
私は、長文を読むという行為は、単に文章を理解することではなく、「仮説を立て、それを検証しながら理解を深めていくプロセス」という側面があるのではないかと思います。
文章を読み進める中で、先の展開を予測し、文脈を補い、意味を自分の中で再構築していく。
この一連の思考の動きが、想像力を養い、ひいてはクリエイティビティにつながっていくかもしれません。
もちろん、このような思考プロセスは長文だけでしか得られないものではありません。
動画や対話といった別の手段でも、同じように仮説を立てたり検証したりすることは可能です。
ただ、長文には「自分で補完しなければ理解できない」という構造があり、思考をある意味で強制してくる側面があります。
この点において、長文は想像力を養うための有効な手段の一つであると考えています。
一方で、長文を読む力は「能力」である以上、それを持つ人と持たない人の間に差が生まれることも避けられません。
そして、その能力を持つ人が社会の中で優位な立場に立つようになれば、人は再びその力を身につけようとするのではないか、とも思います。
そう考えると、長文を避けてしまうことは、自ら能力を手放しているとも言えるのかもしれません。
少々もったいない(^^)
とはいえ、この問題を単純に「個人の努力不足」として片付けることもできません。
長文に触れる機会や環境によって、その能力が形成されるかどうかは大きく左右されるはずです。
では「能力は個人の責任か、環境の設計か」・・・
この問いは二者択一論ではなく、両方の要素があるでしょう。
インターネットの発達から、検索エンジンが隆盛をほこり、そのことが「すぐ答えを求める」行動を促す傾向が強くなり、生成AIが身近になったことでその傾向がさらに強くなってきた気がします。
そしてあまりにも多くの情報を処理しなくてはならないから”タイパ”を求め、その傾向はさらに強くなる。
小説を読むって映画やドラマを観るのとは違った楽しさがあるんですよね。
私もかつてはNetflixなどで映画を観ていましたが、今はNetflixは解約し、小説を読むようが楽しいと思えるようになりました。
動画をみるときは、ほんと何もしたくないとき、かな^^;;

