今回の読書会の課題図書はこちら。
たまたま「利他」の研究会に誘われ、その後コロナ禍で子どもたちを公園につれていくことが多くなり、利他と遊びについて研究するようになったと著者はまえがきで語っています。
そもそも「利他」とはなんでしょうか。
一般的には「他人に利益になるように図ること」として知られています。
よく自分のための「利己」と対比されることが多いですね。
でもこの本では、我々がイメージしている「利他」というものに一石投じています。
他者のために行動したつもりだったのに、実は自分を満足させるためだった、とか、相手に親切の押し売りしていたり、そんなことないですか、と。
そしてそれが遊びの世界にもきているように感じると。
その代表例の一つが公園。
公園の遊具は時代とともに様変わりしてきています。
私が子供の頃によく使っていた箱型ブランコや回転ジムのようなものは、”危険”として撤去されるようになり、”安全”で”精巧”な遊具に変わりつつある、といいます。
この”安全”というのが曲者(^^)
提供する側の「大人」の論理で、「危険だから子どもたちから排除しよう」という思惑が、実は子どもたちの可能性をつぶしているのではないか、という視点。
そして”精巧”であるがゆえに、用途が決められていて子どもたちはその”使い方”に従うだけの遊びになっている、という。
「利他」のつもりが「利己」になってやしないか、と。
「危険排除」という方向と真逆な視点の公園も拡がってきていることを本書で紹介しています。
そこは、”危険”で”ざっくりとした”遊具がおかれています。
管理者によると、「何がおこるかわからない遊具に関わることで、子どもたちは身体全身のセンサーを働かせようとしている」らしい。
竹でできた遊具が突然折れて擦り傷ができたりすることはよくあること。
そういった”体験”を通じて子どもたちは”危険なこと”を学び、自分を守る力を養っていくんだそうです。
そして遊び方などは一切指示しないそうです。
子どもたちは眼の前にあるものをどう遊ぼうか想像力を働かせ、実に見事にいろいろな遊び方を発見するらしい。
揺れるネットでは上にいる子どもがネットを揺らすと、下にいた子どもたちが揺らされて喜んでいる。
これって、「自利利他」ではないか、というのが著者のみたて。
「自利利他」とは仏教用語で、「自らの利益と他者の利益を両立させること」を意味しています。
つまり「自分のためでありながら他人のためにもなる」ということ。
子どもたちの遊びには多くの「自利利他」の要素が含まれていてはずなのだが、それを大人の見せかけの「利他」で壊してしまっている面がありそう、とこの本を読んで感じます。
この「自利利他」って、自分の”ありたい像”じゃなかったか、と。
自分がいいと思えることが周りにとってもいいと感じられる存在でありたいな、と。
でもここ数年、そういう存在であるには自分に何かが欠落しているんだろうと感じるようにもなってきました。
今年姿勢や行動に変化がでてきているのは、もしかしたらそういう状態から脱却しようという意思が働いているのかもしれません。
本書では多くのページをさいて、子どもが生き生きと遊んでいる公園を紹介してくれています。
一般の公園では、”決められた遊び方”でしか遊べない子どもたちが、”受け身”で遊んでいるのに対し、それらの公園では”遊び方を創造して””能動的”に遊ぶ子どもたちがみてとれます。
著者は、こういった違いは「余白」に対する考え方の違いから生まれているのではないか、ということを本書の最初の方で示唆しています。
「効率よく」「無駄なく」「便利な」ことを求めるようになった社会で、その代償として失われたものが「余裕」「余白」。
この本で印象深かった視点の一つがこの「余白」。
ここ数年、自分が大切にしている感覚が「余裕」でした。なにか「余白」と通じるところを感じます。
今の自分は余裕がないと視野狭窄になるし、冷静さを欠くことがあるので、最終的には自分のパフォーマンス(仕事であれ、プライベートであれ)を落としてしまうんですよね。
本書の帯に
「コスパ」と「管理」から自由になるために
というコピーが書かれています。
変化が多く、そして多様化してくると、その変化に対応するには、ある程度の余裕が必要で、よく我々はその余裕を「遊び」と表現します。
この「効率が悪く」「管理していない」領域が変化を吸収する受け皿となり、一見無駄なことを味わえる体験をもたらしてくれます。
そしてその「余白」には自由に誰でも好きなことを当てはめる包容力があります。
真っ白いキャンパスにどんな絵を描こうか、十人十色の世界があるのと同じように。
私が部屋の断捨離を楽しんでいるのは、この余白を部屋の空間に作りたいからなのかもしれません。
